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主に教育関係を集めました。新しいものが先頭になるように配置しています。ここは2004年4月以降です。
過去分 2004年12月分まで 2003年4月から2004年3月分まで 2003年3月分まで

2005年12月15日
教員は2万3千人減に 公務員総人件費改革、文科省試算

朝日新聞のHPで見つけました。財務省というか、文部科学省を含めて税金をどう考えているのでしょう。各省庁とも、「税金は国民のもの」とは考えていないような気がします。
不要になった公共事業を強行したり、「タックスイーター」を増殖させたりして自分らの予算獲得だけに血道を上げているような気がするのです。
だから、今回の予算編成でも「聖域なし」で削減するというのですね。これは、メリハリ無し、重点項目をぼやかせることになりはしませんかな。
教育ですが、教員の数が単に多ければ良いというものではありませんが、質が悪いわ、少ないでは教育効果なんて知れたものになると思います。これは、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学など、どこでもいえることです。
現在は教育困難な学校が増加していますね。そのようなところにこそ、優秀な人材を多数配置して教育効果を上げる必要があるので、少人数制とか推し進めようとしているのです。子育て力が落ちてきていると思われる現状では、特に小学校に優秀な人材(どのような点が優秀かが問題ですが)を増員する必要があると思うのですが、いかがなものでしょうか。
まあ、用のなくなった予算を「既得権」的に残すという民間企業では考えられないことを続けてきた結果が今の財政赤字では。そのほかの理由もありますが、そのツケで赤字がふくらんでいるのだからそちらの方はもっと厳しく削減させるべきでしょう。
時代の変化ととも省庁の役割も変化させるべきですね。それに応じて予算も変化させる決断力を政治家はもってほしいですね。国会議員が省庁の利益誘導の族議員では国民が困ります。

2005年12月11日
総合学習は役に立つのか

簡単にいうと「指導者」の意識と能力で「役にたつ」「役にたたない」が決まると思うのです。役にたてば、なまじ詰め込み教育をするより、非常に効果があがるはずです。学校全体としての取り組みが大切ですね。
日経ビジネス2005.12.12号にある京都の取り組みですね。その中で、京都府立堀川高校では、情報を受け取る力、考える力、判断する力、表現する力を身につけることを目指しているそうです。成果を上げているようですが、その成果を国公立大合格数で見ているところに大いに疑問があります。その進学後、大学卒業後、さらにはその後も含めて検証できればよりはっきりすると思います。
スウェーデンも考えさせることを重視しているとのことですし、フィンランドも。そして、「健全な子供は競争心を持っている」とあります。日本みたいに周りが煽らなくてもです。日本の場合、煽りすぎて、早期から脱落者を作ってしまっているのでは。また、競争を単に目先の入試合格などにおいているものだから無味単調な「詰め込み」になるのでしょうね。だから、勉強はつまらないとか、役にたたないとかね。
東京大学でも「最近は卒論のテーマを決められなかったり、テーマを決めても何を読めばよいのか分からなかったりする学生が増えている。」そうです。テーマ決定については昔もかも。以前は、ほとんどの大学生は文献はまず、自分で探しましたよ。ときたま、教授が持ってくることもありましたが、基本は「自分」です。どうして、こうなったのか。教師が考えさせなくなり、「プリント」等で与えすぎるからでは。
PCの記憶装置にデータを送り込むようなことを「教育」と思いこんでしまったためでしょうね。共通一次やセンター試験がそれに拍車をかけたようですね。

2005年11月16日
教育の目的は

本日の日経文化面の「交遊抄」に次のような引用がありました。
19世紀のイギリスの哲学者ウィリアム・ワード氏の「凡庸な教師はしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は説明する。偉大な教師は心に火を付ける。」という言葉です。
この「心に火を付ける。」よいうのは、生徒や学生に前向きな好奇心や自己向上を目指そうとする意欲をかきたてて、新しいことへの挑戦、そして新しい価値観を生み出していく切っ掛けをつかませることが最大の目的かなと思います。
この目的を達成するためには、日常の地道な学習も必要だと思います。
人は学習や経験を積み重ねることによって人間になっていきます。今、このことを忘れているというか入試だけのための勉強としか理解していない教師、親が多いのでは。大人が模範を見せないと普通の子どもはそのことに気づかないまま、勉強を続けることになると思います。これは、不幸なことですね。

2005年11月14日
教員の給与

本日の日経教育面の「まなび再考」で取り上げられていました。一般公務員に比べて高いかどうかです。
1974年に成立した「教職公務員人材確保法」が今の給与のもとになっているようですね。
「教育は・・・」の下で優秀な教員確保を目指して制定されたものです。
でもね、「優秀な教員」の定義がされなかったようですね。本日の日経オピニオン面の「領空侵犯」で医師のことが述べられていました。「患者心理わからねば排除」とね。詳しくは日経をお読みください。
教員採用試験も問題等を見てください。あれで、優秀な教員を求めるのはつらいかも。面接や模擬授業などでいかに見抜くかと言うことになります。定義がある程度確立されていないと面接官によってとか、年度によってとかでばらつきが大きくなるかも。
熱心で優秀な教員も多いのですが、?と思われるのもいます。他の人から見れば、?という教員も優秀と思われていたりします。
「人間は教育されて人間に成長する」わけですので、勉強を入試のためとかに限定して考えるような教員(結構います。)や評価の順番でしか考えられないような教員が多くなるようなら、今の給与は高いといえるし、「よりよい人間になるために勉強」しているというのが、根本にあって入試とかはその延長線上とかでがんばっている教員が多ければ、妥当な金額かなと思ったりします。

2005年11月7日
学力向上七つのカギ 公立小中の底上げ策、研究者調査

これは朝日新聞のHPの教育で見つけた記事です。公立小中学校の評価についてですかな。記事の内容について、詳しいことは朝日新聞のHPで読んでください。
東京都でしたか、公立小学校の評価についていくつかの科目の「平均点」を学校別に公表したことがありましたが、それをみたとき、厳然としてある「地域格差」には全く触れられていませんでした。俗にいう「教育困難校」のようなところは浮かばれないと思いました。
ところが、今回の「「効果のある学校」は、家庭や地域などの影響で、不利になる子どもの学力を伸ばし格差を越える力のある学校のことを指す。」ということで評価しようとしています。その基準ですが、完全なものはできないかもしれませんがより実態に即したのにされていくことでしょう。
今回は「(1)基礎がわかっているレベルの点数を決め、それを上回った子の割合(通過率)に注目。その学校で「塾に通っていない」「家にパソコンがない」など、必ずしも教育条件がいいとはいえないグループの子の通過率が、全参加校での通過率を超えている、(2)その学校全体の平均点が、参加校の平均点を超えている||という条件を設けた。この(1)(2)両方を国語か算数(数学)どちらかの教科で満たした学校を「効果のある学校」と位置づけた。」ということです。
日本の教育に欠けている絶対評価を使っていることも評価できます。このような取り組みが広がっていくことを期待したいですね。

昨日のBSEのリスクですが、もっと高いという指摘がありました。新聞記事のあるリスクには今後の発症(今は潜在化している)のリスクが含まれていないというのです。現在、3800人ほど潜在患者がいると推定されているというのです。皆さん、昨日も書きましたように「検査済み牛肉」のみを購入しましょう。

2005年11月5日
国語力

国語力という表題にしましたが、日本語で表現されている事項の分野はどの程度になるのでしょうか。また、現在形とか過去形とかの時制はどの程度あるのでしょうか。
事実の述べているのか、提言等未来に向けたことを述べているのでしょうか。
などなど、「ことば」で表現されることは多種多様ですね。理解するためには受け手も日頃から多様な分野の学習が必要ですね。怠ると発信側にも受信側にもなれないかもね。
表現する方は、できるだけ「誤解」や「意味不明」ととられないようにしなければなりませんが、読み手も「先入観」を持つすぎたり、表面的すぎると、間違った解釈をしてしまうことがあったり、全く通じないということが日本語を使う者の間でも起こりうるわけです。
大学の入試問題でもみられます。大学入試センター試験の科目のうち、「生物」で問題を理解するのに必要なのが「読解力」でそれに「想像力」があれば、結構得点できます。そして、生物の素養があれば、高得点も可能です。また、旧帝国大学系の生物問題でもみられるのが、読み込むのが大変ですが問題の中にヒントが多数ちりばめられているというのが結構あります。
インターネットでの情報は、多くの場合、何度でも読めますので、読むのであればしっかり読む習慣をつけてできるだけ的確に読みたいですね。
発信は、できるだけ「誤解されない」「意味不明にならない」ように努めたいです。

2005年10月13日
小学校での英語教育は必要か

本日のニュースで文部科学省が小学校3年生からの英語を必修とする方向であるというのがありました。
そして、賛成意見と慎重意見の両方を放送してました。
私としては、どちらでもという感じです。慎重意見でも言われていたこと、「日本語運用能力」を身につけさてもらいたいです。それが、できたら英語教育も有効になるでしょうね。
日本人は一応ほとんどが読み書きできるというようになっていますが、これは「ひらかな」(カタカナを含む)もおかげですね。中国語は「漢字」を覚えないと書けませんし、英語も綴りを覚えないと書けませんね。日本語は、発音の通りにひらかなで書けばなんとかなります。
漢字がないと、意味不明な文になりますけどね。
「日本語の読解力」「日本語の表現力」をしっかりと身につけさせるのがさきでは。そのためには、国語だけでなく、他の教科も「論述」などをさせる必要もあるでしょう。
日本語運用能力の向上の方が先だと思います。

2005年10月7日
「学校より塾や予備校が優秀」

本日の朝日新聞朝刊の社会面で見つけた記事の見出しの一部です。内閣府の初調査の結果です。親の7割が見出しのように思っているということです。
これは、公教育にとってゆゆしき事態だと思いますね。見出しの件は子供の学力向上の項目についてです。塾などをよいとするのが約70%、学校としたのが約4.3%で圧倒してますね。
それだけ、不信感が強いということです。学校にも優秀な先生が多数おられますが、そうでない教師もおおいようですね。アンケートで教師に対する満足度では不満と答えた親が満足を少し上回っています。
なにやかやで、現在の学校教育を「不満」「非常に不満」と答えた親が約43%にもなるわけですね。
この不信感の解消には大変な努力が必要だと思いますね。それに対して、学校、政府や地方公共団体はどのような施策をするのでしょうか。見物ですね。教師の精神論だけで終わったりしてね。

2005年9月5日
ネットでの情報収集力

本日の日経教育面の「まなび再考」で、インターネットを使った大学情報の収集について述べられていました。
大学に進学できる多くの高校生は、携帯電話もしくはPCを使ったインターネット、または両方使えることが多いですね。
「いつでも使える」状態であるということが、よくない状況を示すことがあるというのです。ギリギリになるまで調べないのですね。そして、場当たり的に調べ、そのとき目について情報に飛びつきやすいというのです。しっかり、利用している者もいたり、オープンキャンパスでネットでは得られない情報をも得ている高校生もいるわけです。
ここで問題になるのは、多くの情報の中から有用な情報を見分ける力ですね。与えられた情報を鵜呑みにするような学習をしてきていると、このような情報収集のときに大事な情報を見落とすことになりかねませんね。
「情報収集力」というのは、一朝一夕には得られないと思います。日常の学習活動が大切ではと思うのですが、定期考査で問題集そのままの出題などに慣れ親しむと考える力はつきにくいと思います。そして、情報の価値判断もできない状態になるのではと思います。
これは、ネットでの大学情報に限ったことではありません。いろいろな方法でいろいろな情報を収集することについていえることだと思います。

2005年8月29日
教育者とはなんぞや

本日の日経オピニオン面「領空侵犯」を読んでいて感じたことです。
本日は千葉大学のある教授でした。テーマとして「タバコ規制」について意見を述べられていました。喫煙者の意見としては普通かなと思いましたが、分野は違っても教育者であり、研究者ですね。そこに引っかかるものがあるのです。
「バカの壁」を読んで、そこで書かれていた「朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。」などをどう思われているのでしょうか。
「バカの壁」では「朝、良いことを知ったら、夕べには朝の知る前の自分は死んで生まれ変わっている。」というようなことをね。教育者でありながら、このようにできないのかなとも思えるのです。
「バカの壁」では、最初の方に薬学部の学生にあるビデオを見せたときの様子も書かれていました。そのとき、大きく2つに分けることができたそうです。一方は以前から知識として知っていることだが新たな発見があって良かったというのと、もう知っていることだから時間の無駄というものです。
どうして、このような違いが出るのか。それは「人間は変化し続けている」と思っているか、そうでないかが大きいようです。そして、教育は「人間は変化し続けている」ということが前提では。
タバコに対しては、以前からの害の話だけではなく、いろいろな新しい知見も多く出てきていますね。その知見はまあ「害」の話ですが、それを単に「知識」(極端にいうと文字列)として受け入れているのであれば「人間は変化しない」という立場になりますかな。それでは、教育にはなりませんね。
やはり、教育者の方が変化しないと教えられる方も変化しないですね。高校野球で時々発覚する喫煙騒ぎの原因の一つでしょうね。
研究者ならなおさらかな。君子豹変とは「君子は変化に合わせて自分を素早く的確に良い方向に変えることができる」というような意味だそうです。研究者なら専門分野以外にも目配せしてほしいですね。

2005年8月27日
駒大苫小牧の事件で思うこと

yahooのHPで過去記事を読んでいたら、被害生徒の態度についても少し出ていました。
この生徒、「照れ笑い」をするようなタイプなのかもしれませんね。指導者たる者は生徒のそのような心理も見抜く必要があると思いますが、如何なものでしょうか。
前にも書きましたが、指導者の思いに合わないのは「怠けている」とか思っていたのでしょうね。淡路島の件でも「怠けている」と思いこんでいたのでしょう。
人間は、あるところまでは皆と同じようにできると思いますが、結局個性が出て違いが出てきます。
宮城まりこさんが日経ビジネスの「有訓無訓」で「同じだけど違う」とか話されていて「違い」を認めることの大切さを強調されていました。
この場合も「違い」を認識できていたらそもそもの事件も起こっていなかったのでは思います。
特に小中高校や大学の指導者は心しなくてはいけないと思います。児童生徒学生は誰一人として同じ人間はいないということを。例え、一卵性双生児でも近親者は見分けがつきますね。違いがあるということです。

2005年8月24日
全国学力テスト復活

昨日のニュースによりますと文部科学省が「全国一斉学力テスト」を復活させるそうですね。
以前の学力テストの問題点は「競争」のみになってしまったためです。どこかの県の平均点が90%を越えていたとか。異常ですね。他の県では常識的な平均点だったはずです。そのことを異常とも気づかない鈍感さが今の残っていると思うからです。
「学力」とは何かについての突っ込んだ議論とか認識とがないようですね。そして、大学卒業後までも睨んだ学力感もないですね。ですから、以前の「競争」のみになりそうで心配です。
アメリカでしたか、一斉テストで平均点の悪かったところに対してはよい意味での「手当」(教員増員とか)があるというような話を聞いたことがあります。公立学校は、どの地域にあるかで教員の力量が同じでの児童生徒の学力に違いがありますからね。そのあたりのことも考えながら、日本全体の児童生徒の学力向上に利用できる方策をしっかりと立ててほしいですね。それができないのなら、学力テストを実施してほしくないです。

2005年8月17日
現実感乏しい職業希望

一昨日の日経教育面の「まなび再考」で扱っていたテーマです。児童生徒の職業認識の低さの様子について述べられていました。
いろいろな情報を得ることができても、それらから具体的イメージを抱くことができない生徒が多数いるというものでした。
昨日の朝日新聞夕刊にあったのですが、東京都立小石川高等学校は理科を「物理」「化学」「生物」「地学」の4つを総合科目としてではなく、それぞれをしっかりと授業するというのです。その方が後々役に立つというのです。地歴でもそうだと思いますが、それぞれの科目をしっかりと授業をした後でこそ「選択」もできるのだと思います。
同じように職業についても、基礎的科目(国語、社会、数学。理科。英語、芸術など)の学習と職業体験が不十分ですと、情報の意味が理解できなくて適切な選択ができないため、情緒的な選択になってしまうのでは。要するに「現実感のない選択」ということです。
このことは、職業希望がけではなく、進学希望でも言えると思います。小中高校の授業内容が軽くなりすぎたのと、テストや評価の拙さなどでより深刻になったのでは。
世の中が軽薄になってきている現れでしょうかね。

2005年8月14日
日本の学校スポーツで不思議に思うこと

大分前の話ですが、「ウサギ跳び」、筋肉を鍛えるというより痛めるということが言われ出してから実際になくなるまで相当時間がかかったようですね。
運動中の水分補給もはっきり言って間違った指導が延々とされていてスポーツドリンクが出だしてからかな。漸く水分補給の重要性が認識されだしたように思います。
製鉄所など暑い環境での労働者は昔から水分と塩分を補給してましたが、体育学部などをでている教師がという感じがしていました。
淡路島でしたか、柔道の合宿中に中学生が心不全でなくなりましたね。神戸新聞でしたかHPにあったのですが、顧問が「気合いが入っていない」とかいって体罰らしきものをしたようですね。顧問たるもの、生徒の体調に注意する義務があったのにそれを放棄して間違った指導をしていたことになるのでは。
この「気合い」ですね。アテネオリンピックで派手に使った人がいますが、皆同じようには表面に出ませんよ。それを見分けるのも指導者の役目では。それができないのならPCでデータを入れて答えを出させた方が正確だったりするかもね。
負けたときの「悔しさ」などの表現の仕方も十人十色です。中には「笑い顔」みたいに人もいるかも、それを見分けるのが指導者でしょうが。勝ったときの「喜び」もね。
それと明徳義塾のタバコ、日本ハムの某選手の時にも書きましたが、小中高校での顧問などに喫煙者はいなかったのでしょうか。一般的な感じでは、顧問や監督のなかにどの程度かは判りませんが、喫煙者がおったのでは思ったりします。
体育関係の喫煙率、結構高いですからね。生徒が真似をしても不思議ではないですね。
今日のニュースで、郵政改革関係法案の審議中に民主党は対案を出さなかったと公明の神崎代表が街頭演説していたというのがありました。
共産党でしたか、社会民主党でしたか、自由民主党の改革反対議員でしたかよく覚えていないのですが、「地方の切り捨て」とか言っていましたが、中央官庁詣での実態を知らないのかな。地方で頑張って大きくなった企業の多くが本社機能を東京に移しているという事実を。このような移転をしなくてよい社会を創るためにも改革を。

2005年8月3日
エイズや性感染症の感染者数

今日のニュースによりますと先進国でエイズの感染者数が増加しているのは日本だけだそうです。そして、ほかの性感染症も増加しているとのことです。
昔と違って、今はいろいろ感染症も判ってきていますのですが、予防法は「教育」によるところが大きいと思います。
ところで、その教育ですが「役に立つ」とは思っていない人が多いようですね。でも、実際は役に立っているのです。
「役に立たない」と思われる原因の一つが「タバコの害」を教えながら喫煙している教師かな。
「知行一致」とか「文武両道」は、学んだことが行動に現れることですね。それとは裏腹な行動を身近で見せつけられているのです。この性に関わる感染症の予防もこの分野の教師が教えているわけですね。児童生徒がまともに受け止めてくれない可能性が大きいですね。
それから、日本生化学会の邦文誌に「受験英語」が論文を読んだり書いたりするときに役に立ったとうことを書かれた大学教授の方がおられました。
ですから、もっと児童生徒が身近に感じる要素をうまく取り入れた方法を考える必要があるとともに、全国の学校の敷地内は早急に全面禁煙にする必要があると思います。当然、大学も含むものと考えてほしいです。最高学府ですから、「知行一致」を身をもって現してほしいです。

2005年7月30日
教員の採用増の要因について

今後団塊の世代の退職で教員の採用が増加するような報道が多いように感じていました。昨日の日経の社会面に文部科学省が「平成16年度学校教員統計調査中間報告」を発表したいうのがあったので文部科学省の該当のHPで報告を見ました。
詳しく読んでいないので「見ました」にします。小中高校の教員の年齢構成ですが、どの校種も40歳代が一番多いですね。そして、中高校では40歳から45歳が最も多いです。ただ、大都市圏は地方からの人口流入で第一次ベビーブーム後の学級減はなかったか、少なかったはずです。場合によると学級増の場合もありましたので、東京都や大阪府などは団塊の世代の教員の割合は高いと思います。ですから、地方から「引き抜き」をしているところもありますね。
それ以外は民間企業と違って、団塊の世代の時期は、学齢人口の減少期に当たっていたはずです。第1次ベビーブームが過ぎ去った後のね。そして、ここしばらく教員の採用が少なかったのは、第2次ベビーブームのあとの減少によるものですね。そして、40歳以下が少なく若いほど少ないという歪な状況になっていますね。
数年前に小学校の児童数の減少がほぼおわり、小学校教員の採用数が回復してきました。3年遅れで中学校が、その3年遅れで高校での採用数が増加するはずですね。たまたま、大都市圏では両方が重なったのです。この増加と民間企業の団塊の世代の退職と大都市圏の状況とをなんら関連もなく結びつけたことのように思われました。
ここにも、教育の問題点が出ていますね。必要な資料を集めない。誰かからの伝聞を簡単に信じる。などです。これは、勉強を「暗記」で良いと思いこんでいるのも原因の一つだと思います。知識、情報の有機的な統合ができないのですね。
いろいろ巷ではいわれているようですが、一度文部科学省のHPで、報道発表一覧や各種統計情報などと厚生労働省の人口動態などと併せて見てみてください。

2005年7月28日
大学淘汰の時代

本日の日経経済教室は「大学淘汰」についてでした。アメリカのハーバード大学は運用基金を持っているそうですね。年間の運用収益は学生一人あたり約500万円だとか。凄いですね。
週刊経済誌(東洋経済)に出ていた数年前の大学の収支データをみると、国立大学では学部学生一人あたりの消費支出の額は大学によって5倍ぐらいの差がありますね。中には、100万円を下回っていたところもあったように思います。それで、教官一人あたりの学生数は私学より相当少ないですね。人件費のみに消えているのかなという感じです。多いところでも院生などを考えるとそれほどでもなくなる可能性はありますが、差は大きいようです。
ハーバードの額をどこも下回っていたように思います。日本の私学は、親の学費負担で持っているわけですね。それも限界に近くなってきている。そこに18歳人口の減少ですね。現実にフリーパスみたいな大学、短大、専門学校もあります。定員割れですね。
大学が生き残る道はというと、学生の要望、親の要望、社会の要望などにどのように応えていくかですね。それが生き残る道ですけど難しいようです。
親の要望の中に「就職」というのがありますね。就職率で見るのか、就職先で見るのかで大学の評価が変わってくると思います。この点では、私学の方が進んでいるようですね。国公立大学で就職先の良いのは・・・などの大学ですね。卒業生に対する就職者・進学者の割合は国立大学の方が良いかなと思ったりします。これは理工系で大学院進学率が高いため。
ある旬刊誌である企業(人事担当者)が国公立大学に対して厳しい評価を下していました。私学はピンからキリまであるという前提ですね。一つの大学の中の学生についてもね。
カリキュラムや名称を変更するだけでは学生が集まらなくなってきているようです。中身を実際に変える必要が出てくるのですがその抵抗勢力は「教官」というようなことが書かれていました。そこを乗り越えて改革をできた大学が生き残るのでしょうね。
ヨーロッパは、大抵国立だそうです。アメリカでの学生増の大部分は「州立大学」でまかなったと書いてありました。日本は、親の学費負担の私学で主で国公立も授業料等を値上げして私学に近い学費負担になってきています。
日本の総人口の方も男は減少に転じましたね。淘汰されるところが増えてくると思います。
公立の小中高校は統廃合が待ちかまえているのではと思います。

2005年7月19日
情報の信憑性

今日のNHKクローズアップ現代で「がんにきく」とかいうことで売られている健康食品や治療法についての特集がありました。
治療法の方ですが、これはある医師の研究データをもとにしているはずなのですが、この方法で亡くなられた患者さんの損害賠償請求訴訟で第一審は医師側敗訴、研究データの科学性は認めがたいというものでした。
がんの抑制の程度にCTを使わずに腫瘍マーカの量で量っているのですが、私は腫瘍マーカは出ませんでしたが立派な「がん」でした。腫瘍マーカは参考程度が普通だそうです。この医師の程度の程が怖いです。
アガリスクなどの件でしたが、本などに出ているほど直るのなら、医薬として承認されていても不思議はないのですが。医薬として承認されるためには二重盲検などが必要になるのでがなされていないですね。それから、本の監修者の経歴の「医学博士」、医師でなくても研究が認められれば貰えます。医学も幅広いですし。この場合は「海外」の大学だったそうです。
まあ、問題になるのが「教育」かな。医師の例ではどのような教育を受けてきたのかな。日本の医学教育の問題です。後者は庶民の受け手きた普通教育にも問題があると思います。「覚える」というのが勉強という感じですね。自分でいろいろなデータを集めて考えてみるということをさせていないということです。だれかからの伝聞、なにかの本などに書かれたとかいうことだけで簡単に信用してしまういうことです。総合的に物事を判断するという訓練がなされていないですね。大学でも卒業論文なしで卒業できるところがあったりします。
情報は各自がその価値を判断する必要があるのですが、それの練習がなされていない。

2005年7月18日
日本語と外国語

小学校での英語教育について、日本生化学会の邦文雑誌「生化学」でこんなことが書かれていました。
生化学研究では英語力は非常に大事である。でも、役に立っているのは「受験英語」、文法などをしっかり学習したおかげで会話力では力不足である。それより、日本語での論理的思考や読解力の基礎の方が大事では。日本語ができなければ、生化学はもちろん、物理も数学もできないとね。
今、日本語での読解力、論理的思考、表現力を十分に身につけている大学生が少なくなってきているから企業は争奪戦を繰り広げているのかも。いくつもの企業から内定をもらう学生とそうでない学生の差が広がりつつあるようですね。
英語、英語という前に「日本語」の力をつけさせる方策を考えた方が良いかもしれませんね。日本語と英語のどちらでも思考できるのは何歳ぐらいまでに両方とも完全に身につける必要があるのでしょうか。これが、小学校入学前ぐらいまでなら、「日本語」教育を見直して日本語力の向上を優先する必要があると思います。

2005年7月16日
取調べの可視化(録画・録音)シンポジウム
取調室の闇に可視化で光を −密室で何が起きているか−

夕方のNHKニュースを見ていたら、このシンポジウムについての報道がありました。この題名は、日本弁護士連合会のHPよりです。
日本では「冤罪」が絶えませんね。これにはいろいろ理由があると思うのですが、警察官の業績評価システムに大きな問題があるのかも。「防犯」は、なかなか評価してもらえないようです。ひょっとしたら、殺人犯を短時間で逮捕すれば高評価なのかも。裁判で負けようが関係ないシステムになっているからか。
時間がかかっても地道に「防犯」や「真犯人逮捕」をしている警察官に高い評価を与えましょう。そうでないと、どこかの県警みたいに調書の偽造や別のところではあまり手柄にならないと思われる被害届が放置されたりとか問題も冤罪と裏表の関係にあると思います。
官僚などが文部科学省のゆとり教育などと同様に現場を本当の意味で理解していないことに大きな原因があるのでは。そこから来る人権意識の欠如も問題ですね。刑務所の革手錠の乱用というのが何年か前にありましたね。今、刑務所は「満員」ですね。それに対処しない財務省や法務省。過密が招いた事件だったかも。

2005年7月12日
教師の質

本日の日経一面の連載は「どうする義務教育  中」でした。
見出しに「迫る『教師全入』」と「人材足りず、争奪戦」とがありました。
まず、若手の質についてですが「他の教師と連携ができず独りよがり、子どもの気持ちがつかめない若手」が増えたそうです。どうしてでしょうね。教員養成の仕組みについて考えてみる必要があるといわれてますね。
でもね、日本の「教員養成」は以前から質は低かったように思います。明治初期の促成養成や旧制中学校程度の師範学校など、でも、当時は社会の教育力が高かったから、良い教師が多かったようですね。
今は、社会の教育力が落ちてますね。そこに、戦前の制度を引きずったままの日本の大学、学部の格差、そして、特に教育学部はどうも経費的にも冷遇されてきていたようです。京都大学理学部教授の方が若手の時、ある教育大学におられたのですが、そのときの研究環境を「劣悪」と評価されていました。これは、この方のHPで読みました。
国立大学の格差、学部の格差の影響をまともに受けていると思います。公立大学は設立母体の自治体の財政力の影響を受けています。
でも、教育の目的は何なのでしょう。そこを間違っている教師が多いですね。本心は単に「暗記」ができれば良いと思っているのがね。よりよい人間になるためなのですが、「よりよい人間」とはどのようなことでしょう。(禅問答が続きそうです。)
そして、「義務教育」の意味も。「義務教育」を課せられているのは、国や地方公共団体、親です。子どもにあるのは「教育を受ける権利」です。

2005年7月8日
情報とは、情報処理能力とは。

情報とは何なのでしょう。そして、情報を収集して何が必要とするものかをどのように判断しているのでしょうか。
養老孟司氏の「バカの壁」などによると、情報とはある出来事を記述したもので変化はしないものであるとありました。今日の新聞は、明日読んでも同じですね。記事の内容が正確などうかは別にして、変化はないですね。
読み手の方は一日生き延びて、いろいろ経験しますので少しずつ変わってきます。すると、昨日の新聞から新しい発見をすることもあるわけですが、新聞が変化したのではなく、読み手の判断基準が変わったからだと思います。
情報を有効化するのは、受け手の価値基準による解釈を通してからですね。この作業をしない場合、真に情報が活用されたとは言えないのでは。
情報教育の根幹は、この「価値基準」を育てることにあると思います。ですから、生活のすべて、学校教育のすべてが情報教育であると考えられます。
帝国陸軍の陸軍大学は、この手の情報教育が全く機能していなくて、「暗記」だけだったようですね。都合の悪い情報はなかったことにして、結局墓穴を掘ってしまったわけです。
今の日本でも「情報教育」は授業での「情報」の時間だけでするものだという意識が各所で垣間見られます。
インターネットには、非常に役に立つ情報から暴力、性(悪い意味の方)、嘘、間違い、あるいは詐欺行為のための情報などが氾濫しています。有効に利用するためには利用技術以前の「価値基準の確立」とかいった基礎能力が必要であると思います。
その基礎能力の養成が今、非常に疎かになっているのではと危惧しています。また、人々の間で価値基準の違いが大きくなれば、その両者間で争いが起きやすくなると思います。

2005年6月23日
沖縄「慰霊の日」

本日で沖縄での地上戦が終了して60年になります。
沖縄戦でが「激戦」であったと聞いています。でも、本来の軍隊の役目をしていなかったという情報もあるのです。
軍隊とは、国民を守るためのもですね。ところが、赤ちゃんが泣くとアメリカ軍に見つかるおそれがあるからと殺害したとか。日本人の赤ちゃんですよ。
まあ、司馬遼太郎氏の講演集の中で言われていたことと同じですね。どういうことかというと、司馬氏は敗戦間近の時宇都宮に駐屯していたそうです。アメリカ軍が湘南に上陸したときに迎え撃つためです。しかし、東京を通って行く必要がありますね。また、当時の教育から考えると避難民が宇都宮方面にも多数押し寄せることになります。そこで、誰かが、「避難民をどうするですか」と上官に聞いたところ、答えは「轢き殺せ」だったそうです。
帝国陸軍は沖縄もこれと同様に住民のことを基本的には「邪魔者」と思っていたのでしょう。そして、硫黄島などに見られる「玉砕」主義ですね。住民が悲惨な目にあったのは帝国陸軍のせいと言えるのでは。
「国体護持」とか言いながら、天皇制を危うくした軍部。思い出したくない部分も含めて歴史を検証する必要があると思います。
今日の「慰霊の日」に思いを込めて書きました。

2005年6月21日
「義務教育に関する意識調査」

一昨日の日経社会面にありました。文部科学省のホームページにも載っていると思います。
まず、義務教育の「義務」の意味ですが、憲法は国及び地方公共団体は学校を設置する義務、無償にする義務を課しています。親には子に教育を受けさせる義務を課しています。子供は教育を受ける権利を持っているわけです。ただ、権利行使にはそれに伴って義務も生じます。他者の権利を侵害しないとか。ただ、病的などの場合、国などが対策を講じる義務を持つはずです。
新聞にあった「教育改革の個別課題についての考え方」の項目でみると「総合的学習」についてですが、効果を上げているところは計画段階からしっかりしているのでしょう。教員の意識も高いが負担も重いと思います。効果のないと答えたところは個別に状況を調べる必要があります。本当に自発的に総合的に学習させることが一般教科を自発的に学習するようになると思うのですが、ただ、教員の数をそのままでは「お茶濁し」になってしまう恐れが強いですね。
授業時間数ですが、子供らが教育を「義務」と感じていたら時間数を増やすしかないでしょう。それと、発達段階がいろいろあるのですからそれに対応できる意識改革、教員の配置等が必要でしょう。今のまま、授業時間数を増やすと効果のある児童もいますが・・・。
全国学力テストの実施ですが、公立学校は校区を限定されているので地域格差が元々あるという前提で行われるべきです。そして、点数の低い学校への教員の増員等の施策がなされる必要があります。地域の実情から目を反らさないことです。それと、テストを到達目標への度合いを計るものであるという意識で考えて欲しいですね。順位付けを絶対にしないこと。
教員免許の更新制導入ですが、どのような教員を不的確にするのかという基準が必要ですね。そして、任命権者とは全く独立した第三者機関が行うこと。まず、基準作りを。真面目にしている教員の評価を下げている教員もいるようです。
英語の前に日本語の力を。「小学校での英語必修化」についてです。

2005年6月20日
規則正しい生活

昨日の日経サイエンス面に「時計遺伝子」の話しがでていました。
生物が地球に誕生して以来、地球の自転、公転のリズムに合わせて生活し進化してきたわけですね。
人間は、昼間に行動をして食べ物を手に入れ、夜は休むという生活を誕生以来してきたのです。
そして、体内にほぼ一日を周期とする時計を持つに至った訳ですね。
ですから、朝日の出とともに活動を始め、毎日ほぼ同じような時間に同じような行動をする前提で体の仕組みができあがっています。
ですから、病気にも症状の起きやすい時間というのがあるのです。新聞(理化学研究所の資料より)によりますと、心筋梗塞、脳梗塞は午前9時頃、関節リュウマチ症状最悪は午前8時頃とか。また、寝る子は育つというのは、深夜2時頃に寝ている場合、成長ホルモンの分泌が多くなるとのことです。
からだの時計は日常の生活行動の時間を予測して体調を整えるように働いているようです。ですから、不規則な生活をすると、体にとって「だまし討ち」みたいなことになって余計なストレスがかかったり準備不足による不都合がでたりします。
この時計は一度に大幅な修正が出来ないようです。「時差ボケ」もこの体内時計が関係しています。
この時計の時刻調節には「朝の光」がもっともよいようです。そして、寝る前は暗めにがよいようです。

2005年6月17日
再生工場

今日も日経「私の履歴書」(野村克也氏)を読んでいて感じたことです。
野村監督がトレードで南海に迎え入れた3投手などが目がでたり、復活して活躍したことについて「野村・再生工場」といわれるようになったとことです。
これは、別の観点から考えると以前に所属していた球団の育成方法というかトレーニング法などがこれらの選手にはあっていなかったということですね。選手の能力、育つ余力を見極めることに賭けては野村監督が上であったということですね。
常勝集団を育てるのが上手な指導者が何人かおりますね。根本氏、西本氏など。それを維持しているのがソフトバンクの王監督とか。
「育てるのが上手」というのが一番のようですね。「野村・再生工場」といわれたことは以前の在籍球団のふがいなさを表すことになりませんか。
例えば、現在の阪神の井川投手の成長の基礎を造ったのは「阪神・野村」のような気がします。
人まねばかりしていては駄目ですよということかな。

2005年6月16日
シンキング・ベースボール

本日の日経「私の履歴書」(野村克也氏)の中にありました。「根性」などの精神論が幅を利かせている時代に南海ホークスの監督になられた野村氏がヘッドコーチに招いたブレイザー氏が出版した本の題名です。
ブレイザー氏はこの題名のように当時の南海ホークスで指導されたそうです。それで、選手は着実に力をつけていったというのです。
そして、野村氏自身ものちに「野球は考えてするものだ」というような文庫を出版されています。
知識を得、考え、行動に移すというのは「知行一致」の意味合いがありますね。「行動」だけでは駄目ですよ。また、「学ぶ」だけでは駄目ですよというようなことですね。
野球だけではなく、すべてのことについて言えることだと思います。「行動」と「学習」したことが不一致はよくないですね。そのような人間がまだまだ多いように思います。私も気をつけねば思います。

2005年6月12日
前例踏襲はリスク

これは本日の日経一面の連載「働くということ2005 第2部 壁に挑むD」の見出しです。
前例をすべて否定してのではないのですが、権威主義的であったり、慣習だからとそのまま引きずっている「前例」は検討する必要があり、放置すると「リスク」と化するというものです。
例として、東京のある医学部の話が出ていました。手術の失敗を隠したというものですね。でも、それ以前からの多くのミスが隠され教訓化されていないことが、そして精神論がまかり通っていることが事故の背景にあったのではいうことです。
過去の仕組みにあぐらをかき、改革に消極的なのがお役所のようです。民間企業では「前例踏襲」のみの経営は企業を破綻に追いやるので必然的に改革することになりますね。できないところは「破綻」が待っているので。
それに引き替え、お役所はノンビリしたものですね。「前例踏襲」主義はすごいですね。取りあえずは何とかなっていますが、時代の変化には対応できていないですね。いくつか例はあるのですが、書くのはやめておきます。
「世間ずれ」のほかのもズレていくことになり事故などに繋がるわけですね。
まあ、常に考えて行動するということが必要ですね。「前例踏襲」ばかりの場合は「考えていない」標本だと思います。

2005年6月11日
ゆとり

JR西日本の福知山線の復旧工事が終了して、新型ATSを含めて完成検査を終了、安全性を確認できたとして合格証が交付されました。
運行の再開がもうすぐあるでしょう。
ところで、今回の事故で言われている「ゆとり」とはどのようなものなのでしょう。交通機関は常に遅延の要素に晒されて運行しています。その結果、多くの場面で遅延が生じていますが「ゆとり」があれば無理をせずに遅れを取り戻せる、あるいは遅れないということになりますね。会津線の事故では遅れどころか未だに復旧の目途が立たないようですね。そのようなこともありますが、JRには責任はないようです。
「ゆとり」ですが、交通機関では「時間的ゆとり」「速度的ゆとり」「車両や線路などの設備的ゆとり」の要素があると思います。そのどれを無視しても事故に繋がりやすくなってきますね。
教育現場での「ゆとり」とは何なのでしょうか。勉強するとき、「基礎学力が十分」にあるとゆとりを持って進むことができます。でも、「基礎学力」とは何なのですか。その点をよく考えないと「詰め込み」に陥って「ゆとり」がなくなりますね。「時間的ゆとり」を感じるのは「基礎学力」が充実したらと思います。でも、基礎学力をつける段階での教育方法によっては時間の浪費としか思えないような感じの場合もあります。
日常生活においての「ゆとり」とは、単に時間が余ることですか。充実した生活を日々送れることかな。この充実した生活とは「仕事(勉強)」「趣味」「家事」などを含んでいるはずですね。「仕事」にだけ追いまくられている状態では「疲労」のみが貯まったりすると思います。
「ゆとり」というのは、「時間に余裕がある」ということだけでは得られないものです。でも、「時間的ゆとり」は大事です。その時間を充実した活動(各自により違いあり)に使えるようにすることが学習意欲が減退することを防いだり、事故などを防ぐことになると思います。

2005年6月10日
なくて七癖

今月の日経「私の履歴書」は野村克也氏です。
レギュラーになって打撃で伸び悩んでいたとき、本{アメリカのテッド・ウイリアム著)の本を読まれています。そして、投手には癖があり、それを見抜くことができれば高い確率で球種を予測することができるとあったそうです。
あとは、偉大なホームラン打者になられていますね。
「本を読む」ということからそれを「行動」に結びつけられたわけですね。あの「知行一致」「文武両道」を実践されたわけですね。
それも、強制されることなく自らの意志ですね。だから、向上できたのだと思います。また、捕手としても大成されたわけですね。昨日までの掲載分でも、当時の常識(はっきり言って非常識)に囚われなかったこともありますが。
ところで、今も日本は勉強などは「強制」てきな感じが強いですね。そして、「知行不一致」てな感じがします。勉強したことが役に立っていないのですね。さらに、非常識に囚われすぎのような感じがします。何とかならないものでしょうか。

2005年6月6日
学校の情報教育と情報処理能力

けったいな表題だと思います。簡単に言うと、例えば、インターネットの使い方を教えることで生徒の情報処理能力が向上するか。インターネットは情報を集めたり、発信したりするのにはよい仕組みですね。ですから、使い方を教えれば情報を以前より多く集めることができるでしょうね。でも、情報の価値判断はどうでしょうか、追いついていないですね。
情報処理というのは、情報をある価値基準によって篩にかけることだと思うのです。その価値基準が不完全なままでは有用な情報を落としてしまったり、その逆もあり得るわけですね。
このことは、新聞などの情報についても起こります。帝国陸軍は、自らの価値基準に合わない情報は「無視」して顧みなかったようです。特に「ソビエト」の情報については。そして、「ノモンハン事件」で得られたはずの情報も無視しています。
いくら、情報機器と呼ばれる装置が発達しても情報の価値判断ができないようでは情報を利用しているとは言えないし、帝国陸軍みたいな例では、さらに始末が悪いですね。
情報化社会とかいわれていますが、日本には未だにこの「始末の悪い」考え方の人間が多くいるようです。なんとか、日本が潰れないことを期待しています。

2005年5月23日
「学校化」する大学

これは本日の日経教育面の「まなび再考」の見出しです。ここでいう「学校化」とは「小中高校化」です。教師が手取り足取りしながら「教える」ことに依存する学生についての話です。
もっとも、高校あたりから、徐々に教師への依存から自律的な学習への移行をしてほしいと思っているのですが、今日のを読むと「大学生」も依存した学習態度に甘んじているようですね。
ゼミで学習方法を事細かに教えなければならないことに著者は危機感を抱かれています。
今の高校生の相当部分が「勉強とは問題集の解答を覚えること。」と理解している節があります。教科書の考査範囲から問題集の該当箇所を探し出せないようですね。
私は、勉強とは「探し出す力をつけること」だと思っています。自らの力で必要な文献や資料を探せるということはその分野について基礎的なことがある程度理解できてこそできるものだと思います。
この能力が怪しい者が結構教師になっているようです。すると、生徒に手取り足取りしてしまえば、大学で以前は教える必要のなかったことまで教えなければならなくなる訳です。
著者は「学生の暗黙知」ということばを使っています。教えなくても学生なら「知っていること」ですね。そこが崩れているとね。教師の責任も大きいような気がします。日本では家庭環境による学力の二極化していくのかな。格差の拡大再生産を何とかしてなくしたいですね。

2005年5月21日
ほめて育てる

子育てや教育において「ほめる」ということをどれだけ上手にできるのか。難しいですね。すぐ「小言」「叱責」などになってしまいそうです。
世の中には「ほめて育てる」のが上手な方もおられます。どのようにされているのかな。
今、問題行動を起こす青少年の中には「ほめられた」経験の乏しい、あるいは全くといって無い者がいるようですね。普通、人間は誰かに「認められる」ということが必要のようです。
学校教育の場では、「ほめて育てる」というのがおろそかになっているのでは。
子供が学校に通うのは「できない」「解らない」からであって、「できる」「解る」のなら通う必要はないですね。飛び級でもさせなさい。
いろいろな場面で「できる」ようになったりすれば「ほめる」ということが必要では。できて当たり前ではなくてね。

2005年5月17日
オンデマンド授業流通フォーラム

これは、大学の授業を多数の大学でオンデマンドで受講できるようにするための組織です。これが、広まることで期待できるのは各大学での教育レベルの向上ですね。
他の大学の学生の評価に耐える授業をする必要が生じるはずなので。
ネットも使いようということですね。普通の授業では、1回受けるだけというのが基本ですが繰り返し受講できるのも良いのですが、集中力の低下は起こるのかな。
大学教育の仕上げは、やはり「卒業論文作成」でしょうね。こちらのレベルを上げることによって「オンデマンド授業」のレベルも向上すると思います。
今後に期待しています。

2005年5月10日
歴史認識の違い・・・より

対独戦勝式典がモスクワで9日に行われました。それに関してだと思うのですが、本日の日経の社説で取り上げられており、表題に「歴史認識の違い際だった対独戦勝式典」が使われていました。
その終わりのほうに1945年8月9日のソ連参戦のことが出ていました。社説では「日ソ中立条約を無視して」とありました。
以前にも書いたと思うのですが、司馬遼太郎氏がある講演の中で「平和条約締結国を仮想敵国とした軍事演習を行った場合、その時点で条約は失効するのが国際法上の通念」とかいうのがありました。
日ソ中立条約は1941年4月に締結されていました。その後の1941年7月に大本営は「来る対ソ戦」を想定した大演習をしているわけですね。
司馬氏の考えからみると、国際通念上では日ソ中立条約はわずか3ヶ月で失効したことになるようです。でも、ほとんどの日本人は社説の著者と同じ思いのようですね。国際的には条約の効力はなくなっていたようですのでソ連は参戦通告をするだけで良かったようです。
このようなことになったのは「国際感覚」の欠如によるためでは。その伝統が未だに続いているといえるわけですね。
過去の不都合の部分をごまかすため、本来なら褒め称える必要のある良い点から目をそらして悪い方向に向かってしまった歴史もあります。
歴史の都合の悪いところを曲解したり無いことにして損をするのは我々日本人です。

2005年5月8日
国民性?

事故が起こってからの事故対策についてはある意味で「歴史を鏡」とできるかどうかいうことと共通性があると思います。
事故も悲惨な状況や不都合であろう部分を直視する必要があるわけですね。そこから目をそらすと上辺だけの対策になります。
歴史も良いことばかりを強調すると同じ過ちを繰り返すことになるわけですね。
鉄道事故でもドイツは同じ過ちを繰り返さないように、そして再びナチスの時代にならないように取り組んでいるわけですね。そのためにベルリンにユダヤ人の虐殺を忘れないために犠牲者追悼の碑を造っています。ユダヤ人だけでなく多くの犠牲になった人々を追悼する意味も持っているのかもしれません。
とこらが、日本は「忘れよう」としているのでは。あの戦争で近隣諸国民に多大な被害を与え、国民にも多くの犠牲をもたらしたにもかかわらずです。教訓として、同じような失敗をしないようにする気がないようです。
このような国民性の違いが事故対策でも出ているような気がします。自動車事故でも「道路の欠陥的構造」によるものも日本では「運転者の不注意」とされてきています。ドイツでは、同じところで多発するのは道路の構造的欠陥として対策をとり、新規の道路建設に役立てているそうですが、日本ではそのような取り組みはまだまだ不十分ですね。
ですから、JRのオーバーラン多発や遅延多発もダイヤの問題が大きいのに「運転手の不注意、技量不足」などだけで済ませてきたことが今回の問題の根底にあるような気がします。事故とかミスとかが多発するというのは構造的な問題があるとの認識が必要では。

2005年5月3日
憲法記念日

憲法の改正を目指す動きが最近盛んになってきていますね。
ところで、大日本帝国憲法から今の日本国憲法への改正(大日本帝国憲法の規定に則っています)を行わざる得なかったことへの反省が全く無に等しいような気がします。
「国体を守る」とか叫きながら負け戦を続け、周辺諸国の人々や日本の人々を苦しめておいて、そして「負け」て改正ですね。押しつけられたのではなく自ら招いたことであると自覚する必要があると思います。
そこのところを十分に反省しておかないと同じようなことが起こる可能性が高くなると考えています。
あの当時を冷静に見れば、戦争に反対していた人々の方が「真の愛国心」があったのでは。
司馬遼太郎氏は「魔法の森」に迷い込んでしまった時代というような意味を述べられていたことがありました。
日本人の体質から見て「戦争」をしていなければ現在も「大日本帝国憲法」であったと思います。
ですから、あの戦争への反省を継続的に十分行い、現憲法の良い点を取り入れて現憲法より良い憲法ができるのであれば改正も良いと思いますが、今の状態では改正には賛成できかねます。
それと、大日本帝国憲法の時、軍部は「統帥権」なるものを持ち出してなし崩し的に憲法を自己に有利なように解釈をしていきました。それが、日本の破滅に繋がっていったと思います。
天皇制を存続させるためにも、「歴史を鏡」とする行動をとりましょう。

2005年4月27日
大学激動「民間の知恵で無駄なくす」

これは、本日の日経社会面の連載よりです。例として北海道大学と東京大学があがっていました。
外部を意識したより透明性の高い分かり易い広報や無駄のない事務について民間の指導を受けているという話です。
今までは、公務員意識で内向きであったものを変えるということですね。その中で「意識変革」がもっとも必要なのは「教員」というのがありました。これは、大学に限ったことではないのでは。
外部の刺激というのは必要ですね。そうでないと「仲間意識」で凝り固まって「世間」では全く通用しない考え方になってしまうおそれがありますからね。
ただし、外部からの刺激があっても、それを受容する能力がなければ帝国陸軍のように全く独善的になってしまうと思います。周りが見えないだけではなく自分自身のことも見えなくなるわけですね。
このようなことを防ぐ方法の一つが「歴史を鏡」とすることだと思います。過去を考えて現在の自分の姿を映し出すわけですね。そうすると、よい点、悪い点がよく見えるはずです。この勇気を国段階では個人より高いレベルで持つ必要があると思います。

2005年4月24日
文部科学省の学力テストの結果について

学力回復の気配があるようですが、問題も多いようですね。
計算ドリル等で練習のできる問題で向上がみられるようですね。しかし、記述式は振るわないようですね。思考力や記述力などは向上していないのでは。
どうしてでしょうか。
「覚える」ということだけが「勉強」という風潮も関係しているでしょうね。家庭の教育力の問題も。成績の2極化、親の学歴と子の学力との相関が大きくなりつつあるかも。
まあ、一喜一憂せず、児童生徒の学力向上に努めてほしいですね。それと、今一度「望ましい学力」とは何なのですか。日本は「記憶する」が幅をきかせています。諸外国の例を参考にしながら「考える力」「表現する力」「自律的行動できる力」をつける教育でありたいですね。

2005年4月11日
脳の発達障害、親に責任

これは本日の日経教育面の「まなび再考」の見出しです。現在、生活のリズムを崩している子どもが多く見られますが、結局は親の生活リズムの崩れから起床や就寝時刻のバラツキが大きくなってきているようです。
聖徳大学の鈴木助教授の報告によりますと、「起床や就寝時刻のバラツキが大きい子ほど、三角形模写ができない傾向があった。」ということです。睡眠ー覚醒(かくせい)リズムの不整が脳の高次機能の発達を阻害するということです。
ところで、生活時間ですが、親の経済状態などの影響を受けやすいですね。そして、規則正しい生活を送っている階層とそうでない階層との分極化を進めている可能性もあります。
親の学歴と子の学歴に相関があるというような報告もありますね。将来への制約となるような影響を脳に刻み込むかもしれない訳ですね。でも、親にその自覚はないし、勤務状況などで無理なこともありますね。このような影響を子どもに与えないようにするため、親への啓蒙、社会の対応が問題になりますね。

2005年4月9日
地毛を茶髪扱いし教諭が黒スプレー

これは昨日googleニュースで見つけました。多くの新聞で取り上げられていますね。教育の基本の一つは「信頼」という概念が必要だと思います。それが、全く感じられませんね。帝国陸軍とか北朝鮮みたいですね。
「人権蹂躙」ですね。
ところで、「服装の乱れ(この場合、頭髪も含みます)は生活の乱れ」とよくいうようですが、学校生活においての順序としては、「勉強への興味関心がなくなった→生活が乱れてきた→服装の乱れ」という順序ですが、逆さまに考えている教師が多くいます。このような考え方ですと、記事のように人権無視でもというよな感じで押さえ込むほかないでしょう。
今は、高校生ぐらいになると勉強から逃げようとしている者が多数います。勉強の意味を感じさせることができない教師も多くいます。勉強の意味が分かっていない教師ですね。国立大学の教育学部出身者でも結構見られます。
そんなのですから、「染めようか」とかいうのが多数でてきますね。「地毛」の子はその被害を被る訳ですね。ここまでしなくても「地毛登録」とかさせるところもあるようです。
「服装の乱れ(この場合、頭髪も含みます)は生活の乱れ」に見られる「原因と結果」の逆転現象はほかでも見られます。
例えば、糖尿病(名称を変えましょう。誤解されています。)、「血糖の調節ができなくなって糖尿病になってから尿に糖がでる」のですが、逆転させて「尿に糖がでた」から糖尿病になったと思っている人が多くいます。糖尿病は血糖値とかグリコヘモグロビンなどから診断されます。尿に出たときは相当酷い状態です。
そうそう、日本人がアメリカなどで暮らすようになると「糖尿病」の罹患率が増加します。疫学的には「炭水化物の摂取量が減少して動物性脂肪やタンパク質の摂取量が増加すると糖尿病の罹患率が増加します。」。糖の吸収をコントロールしても動物性脂肪やタンパク質の摂取が多ければ効果なしですし、総カロリーを減少させても動物性脂肪やタンパク質の摂取の割合を増加させれば糖尿病になりやすくなります。中には、気をつけていても糖尿病になってしまう気の毒な方もおられますが、多くはその人の責任ですね。

2005年4月8日
情報収集・技術で後れ

これは、今月の「私の履歴書」を書かれている米山稔氏の本日分の見出しです。漁業用の浮きが桐製からプラスチック製への転換に気がつかず、苦境にたたれたことがあるとありました。情報収集をしていなかったためと書かれています。そして、技術力がなかったのでプラスチックへの転換もできなかったこと。
その経験が今のヨネックスの経営方針の原点になっているというのです。「情報力、技術力と新素材研究を重視する」ということです。
ところで、帝国陸軍はどうだったでしょうか。日露戦争の時の兵器は、世界的な水準に達していました。しかし、情報に関してはすでに軽視の傾向があったと思います。特に旅順攻撃の乃木軍にね。その結果、多くの将兵が犠牲になっていますね。
ノモンハン事件ではどうでしょうか。日露戦争の頃の兵器に戦車(海外では軽戦車かな)でソビエトの重戦車と戦っているのですね。ソビエトの普通の情報が軍部では、無視というか意図的に排除していたようです。その結果、死傷率75%という世界史上類を見ない損害を受けているのですが、その後にこの教訓は生かされていないですね。そして、太平洋戦争で敗北することになります。
情報や技術に関する適切な判断ができるようになったか、否かということですね。
日本は、今の郵政民営化でも状況判断ができていない、つまり、情報を理解できないのか、帝国陸軍みたいに都合の悪い情報は無視している感じの議員が多くいるように感じます。北朝鮮みたいですね。
だから、北朝鮮はほとんどの分野で後れを取っているのだと思います。
日本の教育現場でも感じられます。怖いことです。日本が滅亡に追いやらせそうで。

2005年4月6日
教科書検定

昨日、中学校用の教科書の検定結果が発表され、すべてが合格したと言うことですね。まあ、検定の合格しないと教科書として発売できないので出版社は、検定意見に合わせて修正をしたからです。
ここで問題になるのが、検定基準ですね。文部科学省の指導要領に則っているというのでが、外部の圧力にも影響されているようですね。
過去は、大学教育の基礎としての程度から惰性で小中高の割り振りがあったのでは。ところが、近年学力低下が喧しく言われるようになりました。それで、「ゆとり教育」をやめて、教える項目を増やしたらしいですね。
ところで、日本の教育、おかしくありませんか。司馬遼太郎氏の「雑談 昭和への道」によりますと、第二次世界大戦の時、イギリス軍では、「日本軍で一番愚かなのは参謀肩章をつけている者らである。」というようなことを言っていたそうです。事実、インパール作戦みたいな作戦を行って多くの将兵を犠牲にしましたね。白骨街道とか。
陸軍大学というのは当時エリートが集まっているはずですね。今もエリートが集まっているはずの官僚やいくつかの企業で不都合が生じています。それも、唖然とするようなことで。例えば、バブル期の土地投機なんかに対する金融機関の融資姿勢なんかもね。
ようするに、記憶することが「勉強」という認識かな。ですから、帝国陸軍は日露戦争で良いとされた戦法で戦うものですから、体勢を立て直した米英は戦いやすかったそうです。教えられたとおりということです。まともに考えることができない。今のどこかの政権党のかな。
学力低下の原因の一つが大学入試センター試験に代表される「択一式」で「序列」をつけるということをしているからでは。
「教科書の内容を良く理解し、それによって行動がよりよい方向に変化させる」のも教育の持つ目的の一つですね。
でも、検定でそのような方向性を求めているのかな。ページ数とかの制限で項目羅列に終わっているのでは。さらに、「歴史」において本当の意味の未来志向の記述にはなっていないようですね。それどころか、日本をもう一度破滅に追いやりたいのかな。どうして、あの戦争に突入して自滅していったのか。そのようなことが起こらないようにするにはどのようにしたらよいのか。これを十分に行っていたら「バブル期の土地投機」などが起こらなかったような気がします。ドイツの戦後教育の原点は「二度と戦争(ナチスみたいな政権)を起こさないようにするにはどうするのが良いのか」というところにあるような気がします。

2005年4月2日
大学卒の就職について

昨日より日経一面に「V字回復 採用前線」というのがありました。今日の見出しは「能力優先 崩れる常識」です。その他にも「中途でも部長級」というのもありました。
「企業は人材構成の良しあしが競争力に大きく影響することを理解し始めた」と一橋大学大学院の守島教授が指摘されています。
この人材構成とは「年齢構成」だけではないですね。「能力」についてが大きなウエートを占めているはずです。企業にとって必要な「能力」ですね。
以前、「自分で問題点を見つけ、解決法を調べたりして考え、周りを巻き込みながら実行できる自立的な人材」などもこの能力になるのでは。
確か、イオンでしたか、2005年度採用で500人募集のところ約300人ほどで打ち切ったようです。応募者が多数いても、期待する人材がこの程度しかいなかったということのようです。この姿勢は他社にも共通しているようです。
さらに、中途採用が増加している。松下電器では技術系で中途の方が多くなるようです。たしか、ここも外国大学卒の採用も積極的になっていたはずです。
企業活動の国際化に伴い外国大学出身者の採用になれてきたのも、この傾向に拍車をかけるようです。
日本の大学、しっかりしてください。卒業しても就職口がないというのでは多くの学生にとっては大学に行く価値がないということになりますね。
大学での改革が良い方向に向かってもらい、それが小中高校に良い影響を与えることを期待しています。
児童生徒学生がより良い将来に希望を持てるようになって有意義な人生を送れるようになって欲しいです。

2005年4月1日
新年度

日本では、今日からがいろいろなことの始まりになっていますね。
会社では入社式が行われ、新人が入ってくるわけですね。学校でも上旬に入学式が行われますね。すでに、今日入学式のところも多いようです。これは、新入生の数の確定を早くしたいというのがあるのかな。昨年は東京都にある国立大学で一時定員割れが起こったそうです。補欠で補充できたとのことです。
学校の方はそれほどでもないのですが、就職の方は「七五三」などということがあるようですね。入社後三年以内に退社する割合です。中卒で七割。高卒で五割。大卒で三割ぐらいということからきているそうです。
どうして、これほど退社率が高いのでしょうか。経営者側、従業員側のどちらにも問題があるのかな。
ある新聞で、勤めた業界についてエキスパートというかある程度ものになるまで働き続けられない若者が結構多くいるというのです。35才ぐらいまでは「若い」ということで転職もしやすいようですがそれ以上になると、勤めた業界についてエキスパートというかある程度ものになって必要があるというのです。そのためには結構継続して勤める必要がありますね。
持続する勇気、場合によると見切りをつける勇気、両方の決断力を持つ必要があるのですが、今の子育て、教育、社会の状況はこれらをつけさせるようにはなっていないと思います。いかがでしょうか。

2005年3月30日
柏市でのポイ捨て禁止条例

いいことですね。でも、このような条例を制定する必要があることは情けないです。他の多くの自治体はポイ捨てや歩行喫煙を放置したままですね。
東京都の千代田区が最初だったかな。徐々に増えてきていますね。
歩行喫煙は健康上の問題の他に現実に幼い子どもが眼に火傷を負わされるというようなことも起こっています。服を焦がすなんて多数あるのでは。そのようなことは歩行喫煙をしなければ起こらないのですから、禁止はよいことですね。山などでは「山火事」の原因にもなりますね。火災の発生原因の大きな割合もタバコですね。
健康上の問題も重大ですが、このようなことも重大ですね。さっきの例では失明の恐れもあるわけですからね。火災では焼死の危険もね。
以上のようなことを起こさないようにするのに一番よいのは、「タバコを生まれてから一本も吸わない」ということですね。
そのためにも「禁煙教育」に携わる教師、医師、看護師などの喫煙は許されないのでは。児童生徒への悪影響が大きすぎます。
憶測ですが、東北の某高校を卒業する間際で喫煙騒ぎを起こした生徒の大人の関係者に喫煙者がいたのではと思ったりします。

2005年3月27日
学校運営について

昨日の日経教育面に三重県でおこなわれている「企業に学べ」について三重県立松阪高等学校の校長先生が寄稿されていました。
そのなかに、企業の調査から得られたこととして「生徒本位になっているか」「学校の独自能力は持っているか」などがあったそうです。
「生徒本位になっているか」については非常に怪しい学校が結構あるように思います。だからこそ、これを最初に挙げられているのでしょう。
進学先についても、その生徒の将来設計等に有利になるところを第一とせず、学校の評判だけ(その教師の自己満足だけ)で受験先を押しつけようとするところが多くあるように見られます。
まあ、世間も実情を知ろうとしないことも問題かな。だから、先のような教師が蔓延るのでは。高校スポーツとかでもね。
「教職員を大切にしているのか」というのもありました。こちらは、管理職向けかな。
「成果主義」について述べられたいます。評価を「あくなき向上心」に活用することが重要ですとあり、その方法として「客観性」が必要だとあるのですが、この言葉だけでは「相対評価」の方が思うバカが出てくるような気がします。絶対評価でかつ客観性の高い評価のことを言われているのだと思って読みました。
今まで、悪く言えば「惰性」で運営してきた学校経営について「企業」の視点からも考える必要があるということですね。

2005年3月25日
大学の研究費

本日の日経私の履歴書(石坂成安氏)でアメリカの研究費について書かれていました。それも国からの研究費についてです。
申請書は研究計画を詳細に書いたりする必要があるそうで、50ページにもなるとのことです。それを相当多数検討して委員会を開いて決めることになるというのです。
でも、それで得られる補助金は研究員の給料などや間接経費も含まれる額だそうです。
石坂氏の居られたジョンズホプキンス大学医学部では学部経費の75%ぐらいがこの補助金で賄われていたそうです。
まあ、補助金を得られる研究者を抱えているところでは、国立並みに国費が投入されていることになりますね。
それに比べてみると日本のはケチくさいですね。COEでもね。
あちらは、補助金で院生の授業料なども支給できたようですね。
鳴かず飛ばずでコツコツする分野もありますが、日本で科学研究補助金の申請書は用紙1枚らしいですね。それで、実績のある人に配分されやすいようです。額もせこい。そうすると、経常経費を多く配分されているところとそれ以外では研究条件に違いが生じ、その差が大きくなりやすいですね。
どちらがいいのか、私はアメリカのタイプの方がよいような気がします。

2005年3月22日
学校のトイレ

綺麗なところから汚い使用に耐えないところまでいろいろなところがありますね。
この格差は清掃と使用の仕方によるのでね。別に古くても綺麗なところもあります。その逆も。
一般家庭でもトイレを見ればその家庭のしつけというか落ち着き具合というか状況がある程度分かります。
ですから、家庭での躾のよい子は大抵は綺麗に使いますね。
ところが、清掃になると今は多くの家庭で子にはさせていないのでは。家庭のトイレは学校のみたいに水撒いてというわけにいかないですので、いろいろ専用のトイレ用の清掃器具、薬品を使うことになります。
学校など全面タイル張りのところは水を多く使った清掃もできますね。基本的には床もデッキブラシなどでこすると言うことが必要なのですが、どこかで清掃の仕方の教育を受けていないと生徒にまともに指導できない教師が出てきます。
汚くなりますね。→生徒が荒れることが多い。なぜでしょうね。
まあ、私は汚いトイレは我慢できないタチなので外出したときはよく「百貨店」でさせてもらいました。(大)
最近はウオッシュレットのあるところで(大)をするようにしていますので、(小)は駅のトイレでもします。昔より綺麗かな。
教師が生徒にトイレ掃除をどのようにさせるかで、その教師の何が重要で何がそうでないのかを判断する能力を少し判定できるような気がします。

2005年3月19日
教育の目的ななになのでしょうか

人間は食べ物を食べて大きくなるだけで「人間」になれるのでしょうか。そうではないですね。赤ちゃんが歩き始めるのも大人が歩いているのを見てまねをして失敗を繰り返しながらできるようになるのですね。喋るのもそうですね。
人間はほぼ何事も「模範」となるものを見たり聞いたりして成長していくわけですね。
とこえおで、現代は以前に比べて多くのことを「見たり聞いたり」しなくてはならないですね。それで「教育」ということが始まったのでしょう。「教育」とは「人間になるための基礎」を学ぶはずでした。
ところが、日本では「出世」などのための手段に矮小化されていますね。その典型例が「テストに出る順」などという参考書ですね。点数を取れれば後はどうなってもよいという考え方ですね。そして、例えば、入試科目であるかないかとかです。
さらに、共通一次以来選択式が蔓延り、酷い例では答えの「記号」を覚えるのが「教育」と勘違いされているような風潮さえ感じられます。これでは学力はつきません。
そして、教師や親は生徒が学んでいることが実際に役にたっているところをそれとなく示す必要があると思います。「知行一致」「文武両道」ともに学んだことが行動に影響を与えるという言葉だそうです。このが成り立たないような行動を子どもの前でするのは慎みたいですね。特に「喫煙」、これが勉強に対する子どもの不信感を助長していると思います。

2005年3月12日
国立大の授業料値上げ

今日の日経教育面「学び再考」で取り上げていました。授業料をどのようにするかという根拠なしであるとありました。
この根拠なしは今に始まったことではないですね。アメリカでは高いようですが奨学金制度が充実しているようですね。給費生制度とかですね。フランスは国立大学ですね。ドイツは公立でほぼ例外なく奨学金が貰えるとのことです。それも月に6〜10万円ぐらい。
日本で良く言っているのが「受益者負担」という言葉ですね。日本で教育を受けて海外にいってはたらくのであれば受益者はその個人及びその働いている国ですかな。国内で働くのであれば、国民全体に還元されていると考えることもできますね。ドイツなどはこの方かな。
アメリカでの教育に対する支出のGDPに対する割合は日本より大きいそうです。ヨーロッパ各国もです。
私学との格差というのも言われますが、私学が高すぎるのなら私学助成を増やすという手もありますね。
ところで、今回は独立行政法人化に伴う経費削減による値上げですね。ですから、しばらく値上げが続く可能性があります。
まあ、大抵の私立大学より学生一人当たりの経費は多く使っているのですから、国立大学関係者はそのあたりをよく考えて研究教育に邁進して欲しいですね。

2005年3月6日
時代は思考停止を許さない

これは日経ビジネス2005.3.7日号の48ページの見出しです。
今号は西武鉄道の件で特集として「時が止まった経営」の最後にあります。
思考停止状態の例がいくつか挙げられていてその結末もありますが、企業経営だけの問題でしょうか。
国においては、長らく「景気対策は公共事業」という思考停止状態が続いていますね。その結果の国債残高の山。規制緩和による民間活力の活用については未だに及び腰ですね。北朝鮮みたいです。
思考停止状態が酷かった例としては敗戦に至った軍部などが挙げられますね。
先の中村教授の特許についての裁判ですね。あれも企業側が思考停止状態だったから起こったのでは。そして多くの企業があわてましたね。今は技術者、研究者は優秀であれば海外でも活躍できます中r。
教育現場でも思考停止状態は酷いと思います。昔から「試験の点数が低い。→できない。」と決めつけている教師が多いですね。表面的には繕ってますが、気が緩む状態で本音が出てきます。
進路指導でも数十年前の状況を今も押しつけるような感覚の持ち主によく出会います。
そこらじゅうに「思考停止」状態が見られる日本がよくここまで発展したものだ(庶民の力の賜物、そして地道に研究や開発に携われてきた人々のお陰です。政治家や多くの経営者は含みません。)と感心しますが、今後はあの「軍部」とは違った形の勢力によって日本が潰れそうな気がします。
フジサンケイグループの経営者も思考停止状態にあったように思います。そこを、ホリエモンにつけ込まれたのかな。

2005年3月4日
大学院や大学で学ぶこと

昨日の日経社会面の「大学激動 第3部」で「投稿から  院生・一般編」よりです。
投稿している院生の立場からの分では、「酷い教員」もいるのだなという感じと、まだ「教えてもらう」ことに拘っているという感じもしました。
一般から分では「自主的に知識得よ」と見出しにありました。
大学でも分野によれば「教えてもらう」部分もあるとは思いますが、基本は自学ですね。私の通った大学がよかったので、こちらからお願いしたら卒業後でも時間を割いて鍛えてくれました。「教える」ではなく「鍛える」ですね。
「知識」については基礎はまあ教えてもらっても、大体は自学で得て、方法論というか「考え方」を鍛えてもらうところだと思います。
結局、独り立ちしたときに「自ら疑問点、問題点を見つけ出し、資料などを自分で集め整理して考え、取捨選択してまとめて他者に発表(他者を説得し理解させる)する能力を身につけるところではと思います。
戦前は問題点などを認識できなかったため、結局、敗戦という憂き目にあったわけですね。今の北朝鮮も同様ですね。また、問題点を見つけても対処ができなければよくないですね。このようなことにならないようにする方法を身につけさせるのが教育では。
まあ、一部の人間は別ですが、普通の人間は指導者(教授かな)より優秀にはなりませんね。ですから、大学の教員の質というのが大切になります。国立大学でも怪しげなのがいるようです。
国公私立どこでも、ピンキリですからよく調べて進学したいものですね。

2005年3月3日
最も大切なのは着眼

これは「私の履歴書」の昨日の見出しです。今月は免疫学者の石坂公成氏です。その第2回で書かれているのが父から教えられたことがこの「世の中に出て一番大切なことは着眼だ。どういうことに目をつけるかわからないと、どんな努力をしてもよい結果は生まない。」とことだそうです。のちにこの言葉がずしんと来るものがあったそうです。
これは、いろいろなことで言えることだと思います。企業経営でも発展させるためには経営者の着眼(経営方針)が大事になりますね。過去の惰性では発展しませんね。潰れることすらありますね。学校の勉強でも闇雲に覚えるのではなくよく吟味して理解してから覚えると忘れにくく効果的です。
大学の卒論でも研究テーマをどうするかということ(どのような疑問に着眼がするか)が成否に大きく影響すると思います。
着眼力を持つためには、常に幅広く興味関心を持ち情報を収集し整理し価値判断をして取捨選択することが必要ではと思います。何時までの過去の幻影にしがみつくのではなく、よかったこと、悪かったことも考慮しつつ新しい情報を取り入れ柔軟に価値基準を修正できる能力を身につけることが大事でしょう。
過去にも書きましたが、「知行一致」「文武両道」ということもこれと大いに関係すると思います。新しいことを知って良いと判断したら行動もそれに合わせるというようなことですね。今までの行動が良くないということが分かれば軌道修正することも含まれると思います。

2005年2月28日
学生、生徒の文書力
これは一昨日の日経教育面の「まなび再考」のテーマでもありました。
落ちているという話ですね。文書力が落ちたかどうかはおいといて、落ちていく理由を考えてみたいと思います。
小学校からの作文ですが、これは自分の思いを綴るということに力点が置かれているのでは。読書感想文もそうですね。
ところが、大学などの論文、レポートなどは自分の論点を明確にして他者を説得するというか分からせるということが目的ですね。
どちらも練習することなしには上達しないと思います。そして、その練習の一つとなる試験での論述問題が激減していますね。択一式が非常に多くなっています。その結果、問題の読解力も低下してきているのでは。
センター試験の生物TBは読解力だけで5割以上できるという人もいます。
対策は難しいですがもっとしっかりした文を読ませ、それについて論述させる練習がいるのでは。
それと、現職教員の読解力の向上も必要ですね。「大学入試センター試験受験案内」の内容で理解できないところがある現職の国語の教師もいます。これ、よく読めば高校生なら判るように書かれています。
パソコン利用が文書力低下の原因という人もいますが、この場合、低下原因は道具にはないと思います。あくまでも人間の方です。

2005年2月26日
大学院について
日経で「大学激動 第3部 大学院肥大化のツケ」という連載が昨日から始まりました。
昨日は、質のよい院生の獲得競争みたいなこともでていました。そして学歴について「マネーロンダリング」をもじって「学歴ロンダリング」ということばもあるそうです。これは、学部の時とは異なる大学の大学院に進学して最終学歴を変えるということからきているのです。連載ではよくないような感じで書かれていたのですが、よいことでは。アメリカでは原則として他の大学の大学院に進学するとのことです。これによって、アメリカは大学の教育のレベルを保とうとしているのでは。身内だけですとどうしても甘くなりますからね。
日本はまだまだ身内ですね。ですから、今日の大見出し「底上げ修士」というのが出てくるのでは。ほとんどの学生が他の大学院に進学するのであれば学部の教育レベルを上げるため、もっと真剣になるのでは。
それから、学生や大学院生の指導ですが、上級生の有効活用をはかれば教える方も勉強になりますが、今はまだ実験操作ぐらいしか教えていないのでは。それと、教育システムとしていないため断片的であるため、どちらにも有効にははたらいていないと思います。
「教える」ということが一番の勉強になるのですが、そのことについての認識不足も著しいですね。
「底上げ修士」の原因の一つに「自発的自己向上意欲」の低下があるのでは。
大学にもなれば、指導も受けますが自発的に勉学等に取り組めるはずですね。高校でその準備がほとんどできていないからでもあると思います。

2005年2月23日
スポーツはサイエンス
健康志向でするスポーツも科学的に正しい方法でおこなえば効果が大きくなります。非科学的におこなうと弊害がありますね。
筋肉トレーニングですが、以前買った本に「休息が大事である。48時間から72時間の休息」とありました。
この理由が数年前の日経サイエンスに載っていたのです。筋トレをすると筋繊維(筋肉の細胞)に傷がつきます。この傷を修復するためにそばにある衛星細胞が分裂してそのうちの一つが筋繊維と融合し核の数を増やしてから修復するとのことです。核の数が増えると筋繊維の持つ収縮性タンパク質を増やすことができるというのです。
この修復期間が「休息」として必要のようです。ところが、未だに毎日トレーニングをさせている指導者が多いようですね。
筋力の維持についてもいくつかの書物であったのは「週1回」です。もしトレーニングを中断したときは、毎日組より筋力の低下が緩やかです。このあたりを学術研究の成果を現場に取り入れさせる仕組みが日本では十分できていないようです。
アメリカではスポーツの総合的な研究トレーニングセンターが確かデンバーにあったと思います。オーストラリアでもあるのでは。そこでは、筋肉の質を調べてより効果的なトレーニング法を選手に提供しているはずです。
スキーも昔から国の科学力上げての総力戦の様相があります。日本は未だに個人が主体のようですね。
学校スポーツをもっと「科学的」にして欲しいですね。

2005年2月19日
若者は忍耐力不足 73%
これは本日の日経教育面「数字は語る」の見出しです。
経済同友会の企業経営者アンケートからです。
今の若者の良い点と悪い点を選ぶという形式で調査されています。
これは不足している方ですね。この原因は家庭や学校を含む社会全体にあると思われます。
ところで、不足しているものに問題解決能力や課題発見能力なども上げられています。
ここらは学校教育によるところが大きいですね。問題集などの解答暗記型の授業および試験を繰り返させられると考えなくなりますね。
例えば、考査範囲を教科書のページでのみ発表すると問題集や副読本のどこをすればよいか解らない。副読本は授業で使用いているにもかかわらずですね。
だいたい教科書に準拠して授業をしていれば教科書での範囲も見当がつきそうなのですが、それも考えない。それで教師の方が妥協して懇切丁寧(実際は単に生徒をバカにしているだけ)にプリントに教科書、副読本、問題集などの範囲などを書いて配っているが多数います。
このようなことをする教師の方が生徒受けがいいのですね。
この例に見られるようなことを繰り返せば「問題解決能力や課題発見能力など」の初歩も身に付かないでしょう。
ですから、総合学習の意味も理解できないのでしょう。
大学教育に於いてこの「問題解決能力や課題発見能力など」を学生に身につけさせるために苦労しているところが多いようです。
高校での進路指導で住居地の私学と遠方の国公立(下宿)との場合、住居地で就職したい場合、生徒にとってどちらが有利(経済的なものも含む)なのかもよく吟味しないで国公立を進めるのがいます。全国どこでも就職のさい有利に進めることのできる大学は国公私立どれをとってもそれほどないのにね。解っていないのです。
まあ、どこの大学も地元と東京に対しては精力的に頑張っているようです。

2005年2月16日
ネット上の情報は正確か
ネット上には多種多様の情報が多数あります。これらの情報の真偽および質ですね。多様ですね。
検索サイトで検索上位の情報は正しいのか、役にたつのか?
結局は信頼できる書物等で確認することが必要ではと思います。
googleですが、被リンクが多いのは良いサイトというの基準の一つのようですね。その他にもいくつも基準があるので少しぐらいあっても下位に転落したりしています。また、基準を変動させているようですね。
でも、リンクはする方の価値観で設定されることになりますの違う価値観から見ると利用価値なしもあり得るわけですね。私のサイトなどはその典型でしょう。お陰様で時々ウイルスメールが来ます。yahooのwebメールで対処しています。メールソフトはアウトルック以外です。セキュリティーの都合でソフト名は言えません。ウイルス対策ソフトもPCごとに違うものを利用しています。ブラウザーもIEは通常使いません。
今日の日経一面の連載「ネットの死角」である大学の先生が学生のレポートについて話されていました。
「4割ほどがネットの情報をそのままコピーして提出している。真偽も確かめずに検索上位の文章を正しいと思いこんでる。」とぼやかれ対策に追われているとのことです。
これは、情報を与えられ続けてそれを覚えることのみを勉強というような教育を受けてきたからでしょう。
自ら探し真偽を確かめるというのは大学生になって初めてしたのでは。「考える」という作業を面倒がる性格も災いしてるかも。
今日のタイトルに「ネット上の情報は正確か」としましたが、巷に溢れている情報すべてに言えることですね。それと、情報自体は正確でも解釈の仕方で価値が違ってきます。その「解釈」するための基礎になる「知識」等も問題になりますね。
我々は常に「知識」などの点検をおこない、取捨選択する必要があるわけですね。よりよい情報を得たと思えたら「君子豹変」(以前とは違うよりよい人間になる)することになると思います。
情報が「正しい」とかは結局各自の価値観で判断することになるのでは。決して「検索上位」など外部条件だけで判断するものではありません。

2005年2月14日
本日お休み→LPレコードの話→教育のこと
適当なネタが思い浮かびません。土曜日に某電気店街まで遠出してマーラーの交響曲第3番のLPレコードを買いました。
少年合唱団の歌声(ボーイソプラノかな)が綺麗なのが印象的でした。CDも持っていますが声が濁っていました。
これは「サンプリング数」の問題です。CDの限界ですね。ですから、最近サンプリング数のさらに多いスーパーCDやDVDオーディオがでているわけです。
欧米ではLPレコードの新譜が未だにでているわけですね。日本でLPを捨てたクラシックファンで泣いた方が大勢いたそうです。メーカーの情報を鵜呑みにした結果ですね。
やはり、自分で調べ考える能力というものを教育で育てる必要がありますね。

2005年2月12日
フランスでバカロレア資格の科目減に高校生が反対のデモ
本日の朝日新聞夕刊にでていました。
フランスでのバカロレア資格は高校卒業認定と大学入学資格の両方です。そして、これを取得すると原則として無試験で大学(ほとんどが国立だったと思います)に入学できます。
高校3年生の負担を減らそうとして科目を半減させる代わりに学校での平常点などを加味する案を発表したところ、学校格差があり、どこの学校を出たかで不利になることがあるとして高校生10万人がデモをしたそうです。
他の理由もあって無期限延期になったというのです。
向こうの高校生はやりますね。要するに現状ですとどこの高校をでても同じ基準で評価された資格ですが、改定案では平常点などの基準が学校によって異なってくるというところに問題があります。そこを高校生たちは心配したのでしょう。
フランスのシラク大統領や前大統領などは「高等行政学院」を卒業しており、大学ではないようです。カルロス・ゴーン氏は「国立鉱山学校」のエリート養成コースです。これは激烈な入学試験があるとのことです。
これで思うことは、センター試験を大学入学の基礎資格認定のみ見る試験にしませんか。フランスでは、基準のバラツキが嫌われたのでしょう。
高校格差は厳然としてあります。大学格差もね。ならば、外部団体による資格としての卒業認定テストを大学も高校も導入してはいかがでしょうか。

2005年2月9日
総合的学習は教師次第
これは本日の日経社会面の記事の見出しです。
文部科学大臣が小学校の授業を見学しての感想です。
これはどの教科でも言えるかも。でも、総合学習を教員の現状も考えずに導入したのはどこの官僚でしたけ。それを棚に上げて発言ですね。
研修も十分せず、人員配当も現場押しつけ。この総合学習を効果のあるもにするためには高い教養と論理的思考、各教科の関連性などに理解のある教師が必要なのですが今の教員養成の仕組みでは心許ないです。
大学の科目では、卒業論文などが総合的に学習してその成果を発表するので「総合学習」に相当するのでは考えます。ところで、この卒論指導が的確にできる大学教員はどの程度いるのかと思います。
どちらかというと、旧帝国大学、旧三商大などや有名私学に多いと思います。ほかの大学にも居られますが。普通の人間が自分が指導された経験があってこそ生徒を指導できるのだと思います。この指導された経験がずさんですと指導はできませんね。
一般の教科でもこの現象は見られますよ。
自ら能動的に勉学してこなかった者は教える時、受動的な勉強を押しつける傾向があります。
また、受験勉強を苦しみながらしてきた者は勉強は辛いものであると思いこんでいる節があります。勉強は楽しいのですがね。そうは思えないのですね。それは生徒に伝わります。そのような教師が多数を占めると一部の教師が頑張っても多くの生徒には効果がないですね。
ということで教師次第、親次第ということになってしまいそうです。

2005年2月7日
大学の授業料
本日の日経に大学の授業料の歴史についてのコラムがありました。
授業料を毎月という感じで集め始めたのは福沢諭吉の慶應義塾が最初だそうです。しばらくすると、それが当たり前になっていったようです。
1890年代でしたか、帝国大学の授業料が25円のとき、慶応は30円だったそうです。東京専門学校(早稲田の前身)は20円ぐらいで、明治大学の前身の学校はもっと安かったそうです。
そして、このときから授業料に対する学生の考え方に早慶の違いがあったそうです。授業料値上げに対しては早稲田の方が激しく反応していたとのことです。
今は、当時や1970年前後みたいな感じではないようです。
国立が年間53万5800円で私学の文系が80万円前後が多いようですね。戦後の一時期より格差の比率は小さくなっています。下宿や遠距離通学などすると自宅から近距離の私学に通学する方がトータルで安くなる場合が結構あります。
大学でたあとの就職先については各大学で地域や業種などに違いがあり、全国どこでもというのは、国公私立のなかで極少数の大学のようですね。今は大学のHPで調べてみることができますので受験前に、できれば志望校決定前に調べてみることをお勧めします。
ただ、どこの大学に進学しても充実した生活を送るということは必要です。東大などでも就職でも進学でもない卒業生がいます。

2005年2月5日
学ぶ喜び知る
これは日経「私の履歴書」、今月はピーター・ドラッカー氏の今日の見出しです。
9才の時、学校長が潜在能力を導き出して学習帳にその目標が書き込まれて伸ばしてくれたそうです。ですから、ドラッカー氏は「できないことではなくてできることに注目せよ」「目標管理(目標によるマネジメント)を実践せよ」と助言されているそうです。
努力してできるようになったり、解るようになる成功体験をすることによって得られる喜びですね。大切ですね。順位より大切では。
このことが将来、自ら疑問を持ち自ら調べ考え考えをまとめる力、他者に伝える力の基礎では。言われた通りするのではなく、自ら方法も考えてする、そして新しいことが理解できた時の喜びというものですね。
内容が深くなるにつれて幅広い知識が必要になりますが別に苦にはならないですね。勉強するのが楽しいですから。
勉強が「行」になるのは「学ぶ喜び」を知らない、解らせないような教育になっているからでは。

2005年2月3日
「全入時代」の大学に求められるもの
これは本日の日経社説の題の一つです。内容は日経を読んでください。
私なりに思うところを書いてみます。
まずは、卒業生の学力を含む能力の最低基準の保証ですかな。基準に達しないものは卒業させないと言うことです。この場合、問題になるのが「基準」ですね。ある大学のある教授は、受講生に「80点あげる。」とか言っていたのその大学のHPにありました。その教授の基準はどこに行ってしまったのでしょう。
会津大学は、外国人教授が厳しく成績を評価しているようですね。その結果、企業の信頼は厚いようです。入試難易度は会津大学の方が低かったのでは。卒業生の質が問われていると言うことですね。
新聞には、「世界的な研究大学」「教養大学」「高度専門職大学」など、すべての大学が同じ方向ではなく特色を出すべきであるとかありました。でも、それぞれの分野でにおいての「卒業生の質」とい問題が付きまといます。そこの議論、そして基準の設定なしには今と同じようになって棲み分けができないことになります。
現状では、研究大学的なところが高度専門職大学院を作っているというところがありますね。
「卒業生の質」を問題にすると、留年や退学が増加すると思いますが仕方がないと思います。教室に「存在」するだけでは意味がありません。主体的に研究活動のできる学生を増やせる仕組みにする必要があると思います。

2005年2月2日
大学入試問題点検
これは本日の朝日新聞社会面に出ていた記事からです。
合格発表までにその出題した大学が予備校に問題の点検を依頼しているという記事です。代ゼミで15校ぐらい、河合塾では50校ぐらいあると書いてあったと思います。
合格発表後に発覚すると訂正や損害賠償などが起こりかねないので48時間以内にということだそうです。
これについてある大学の教授は「大学の質の低下がおこるかも」とか憂慮されていました。
マークシートの択一問題などをするからでしょう。推薦入試でも一般入試でも「論述式」にすれば、出題ミスは激減します。誤植等のミスがあったりしますが。
もっともある大学のHPでそこの入試問題の模範解答を見て唖然としたことがあります。思わずネットで調べました。どうも私の方が正しいようでした。
大学選びをする時は設立母体だけではなく卒業生の進路先(率ではありません。就職率などが同等と思われるところより低い時は問題があるかな。)などで学生がどの程度鍛えられているのか調べる必要があると思います。

2005年1月23日
「文武両道、日本になし」
本日の新聞の早川書房の広告にあったマーティ・キーナート氏の著作です。スポーツ界ということで書かれていますが、実際は全分野にわたっていると思います。
読んでみたいとは思いますが、今日は養老猛著「バカの壁」を読んだ時の考えからまとめてみたいと思います。
日本で「文武両道」とは、学校などにおいて勉強と運動の両方、但し、切り離されて考えられています。
私は「知行一致」と「文武両道」とを同じような意味で捉えているのでは。
「勉強」したことが「行動」に現れることをいうのではと思っています。
だから、医療関係者や保健、体育の関係者が「喫煙」するのはこの「知行一致」になっていないわけですね。
また、多くの学校教師や親が学校の勉強は役にたたないと思っていますが、「知行一致」のような考えからすると役にたつ。それを、役にたたないように教え、また、そう思っている人が多すぎる。
役にたつように勉強した方が「記憶」によく残り、活用もされやすいですね。そう思っていないから教える方も学ぶ方も苦労が多いのだとね。
日本は「歴史」に学ぶということがヘタですね。これも「知行一致」ができていないからだと思います。「知行一致」のできている部分は少ないのですが、その部分が頑張ったの今の日本があるわけですね。
「君子豹変」も良いことを知れば行動を変えるという意味だそうです。
じっくりことばの意味を問い直し、考え方、行動を見つめ直しましょう。

2005年1月22日
子供の「読解力」低下
これは本日の日経教育面「まなび再考」の見出しです。
「昨年暮れに発表された学力の国際比較調査(PISA)で日本の子どもの読解力が、前回の2位グループから加盟国平均に転落したことが、危機意識を煽った」とありました。
さらに「注意が必要なのは低下したとされる『読解力』の中身である」ともあります。今の子は表現力というか、自ら論理的に議論し、自分の意見を立論する力や表現力に問題ありと思われる事例に出くわすことが多いですね。
対策に国語という教科だけでは向上は無理でしょう。もっと幅広く調査し考えて立案する必要があると思うのですが、文部科学省は即座に「読解力向上プログラム」を立ち上げたそうです。
「ゆとり教育」などで学力低下はないとか頑張っていた文部科学省だから調査などしていないでしょうね。つじつま合わせで立ち上げたと思いたくなります。
教育学部などの研究者がこの案を官僚とともに作ったようですね。
このようなことで「大人の問題」が浮き彫りにされたとあります。丁寧な分析なしに短絡的な政策を通してしますという問題があると指摘しています。これが「日本の教育政策と教育研究者の水準である。」とも書かれています。
現在の状況になったのは、子どもたちの前に「大人の学力低下」が起こったためではとも書かれています。
そうだと思います。だから、問題は深刻です。「センター試験受験案内」の記載事項を理解できない教師が結構います。深刻です。

2005年1月19日
センター試験の国語で教科書記載の教材が出題される
某教科書会社の教材が出題されて議論を呼んでいますね。
センター試験を競争試験として使っているから騒ぎが大きくなっているのだと思います。
今のような使いかたですとすべての得点分布域で問題が生じる可能性があります。時間をかければ教科書販売記録から受験生をある程度分けられると思いますが現実的ではありませんね。
このようなことが起こったことを踏まえて得点を合否判定に使うことを止めましょうや。
すべての大学受験生の基礎学力の確認に使い、ある得点以下は受験を認めないとか利用にしましょう。
受験料は徴収せずにおこなうことが望ましいです。

2005年1月17日
少子に挑む 読者から
これは日経に元旦から始まった連載に対する読者からの声です。
その中には、国に対する子育て支援についてや、仕事と育児についてなど多くあり、教育についてもあります。
その中に「教師の質低い」というのがありました。すべての教師ではないのですが、結構いるようですね。問題教師とかでリストアップされるのは少ないですが、よくよく調べると「教師?」というものです。
記載されていたのは、「遅刻が多い」とか「連絡の遅れ」などです。(子育てによる育児時間をとって遅れるのは除きます。)そのほか、中高一貫の私学でも塾に行く必要がとかありましたが、こちらの方は教師の問題と本人の勉強に対する考え方、取り組みの両方でしょう。でも、教師の要素が大きいかな。
とか、書きましたが、「外れ」結構いると思います。ただ、「外れ」と考えるのはどの段階なのかというのは価値観の問題もあって難しいです。
勉強の動機付けに「校内順位」などを使う教師は「外れ」だと思っています。ところが、これに頼る教師は多いですね。だから、入試対策となると出る事項のみとかを羅列的に教えていることが多いのでは。
ある私学で生徒が別解を見つけて教師に相談したら、「その方法は入試で出ないからやらなくて良い」とか興味を潰すような指導をしたところがあるそうです。
「興味・好奇心」こそ勉強の一番の原動力です。それがわかっていない教師は程度が低いですね。自力で勉強できるようになったところは良く理解できて忘れにくいし試験でも良い得点が期待できることがわかっていないのですね。
それと、教員採用試験の問題を一度ご覧になってみてください。たしか、各教育委員会は公表していないはずです。見れば非公表の理由は解ると思います。

2005年1月16日
なぜ進む 子どもの勉強離れ
これは、本日の日経読書面の「今を読み解く」の見出しです。
私なりの考えも入れて書くと、理由の一つが「個性化」とかいう割に「校則」等による画一化を同時にしていることによる「個性の考え違い」。個性なんて普通に生活しておけばそれで個性は出ますよ。他人の物まねを強制するようなことさえしなければね。そして、急がず徐々に自己への認識を深めていけばいいわけです。仕事の個性とはが一致すれば「儲けもの」程度です。人間結構柔軟性があります。ところが、今の「私捜し」急ぎすぎですね。本当にわかるのは中年を過ぎてからかな。死ぬまでわからない人も多いのでは。
進路変更をやりやすいような仕組みにすることによって「挑戦」という意気込みが出やすくなると思います。
「個性化」とかいう割に進路指導の没個性化。その結果、コラムにあるのですが、「負け組」のあきらめの良さ。感心します。私など「諦め」が悪いもので金銭的に豊かであれば、別の分野で大学に行きたいなどと思っています。今、TOEICを受けてみようと英語の勉強などを自分流でやっています。
学校の教師や親の情報収集や解析力のなさも子どもに悪影響を与えていますね。その結果、学力格差が大きくなっていってるのでは。一部の天才を除いて人間は大して差はないですよ。成長の早さの違いは大きいですがね。そのあたりもわかっていないから余計学力が低下してしまうのでは。
受験勉強も考え方、やり方次第では「役に立ち忘れにくい」のですが、今の主流は「あとで役立たず忘れやすい」方法ですね。だから、面白くないので余計勉強離れしてしますのでは。

2005年1月15日
本日センター試験
2005年度入学者選抜用の試験が行われました。昨年より少し減少しているようです。
ニュースの中で、学費の安い国公立人気・・・とか、資格志向で・・・とかのコメントがありました。
私学の学費はほとんど上がっていないですね。国立は15000円高くなり、格差が少し少なくなりました。自宅通学と比べて文系では下宿をすると国公立の方が大抵高くなりますね。
資格志向ででしたか教員養成系の人気とかいっていましたが、中高校の教員免許はほとんどの私学で取れます。小学校のを取れる私学もありますね。こちらは。国立の割合が大きいですけど。
国立の教員養成系の就職状況については本部科学省のホームページにありますのでご覧ください。
教員になるには、大学がどこであろうと教員免許を取得し各教育委員会の採用試験に合格すれば良いわけです。
国立にするか私学にするかは、目的、大学の内容、学費、生活費、入学できるかどうかなどを総合的に判断して各人の最適なところに進学できれば良いと思います。

2005年1月13日
もうすぐセンター試験
あと2日ですね。前の共通一次から数えると長い年数になりますね。
センター試験の存在意義はとかありますが、受験生の方は高得点目指して頑張ってください。
共通一次試験導入が「大学序列化」の解消だったのでは。でも、利用の仕方を完全に誤りましたね。共通1次試験の得点を合否判定に利用してしまいましたから。このことで、統一試験による合格者の学力?なるものが世間に知れ渡ることになり、さらなる「序列化」が進みました。
以後も解消される気配なしですね。国立大学間の格差は一部大学を除いて以前より広がっているような気もします。さらに、財政上などの格差は昔のままという感じがします。大学内の各部間格差もあります。
受験生の集まる大学とボチボチの大学に別れつつあるような気がします。倍率が1年ごとに大きく上下する大学、学部、学科、専攻は取りあえず合格したいと受験校を決定している受験生の多いところですね。
センター試験の得点などを合否判定に使うし、出願までの時間が短いため、右往左往に拍車をする受験生が多いです。
センター試験の資格試験化が必要ですね。受験資格の最低限度してのみ利用すること。京都大学理学部タイプですね。すべての大学でこの方向に進むなら、センター試験はあっても良いですが、今の状況では「廃止」にして欲しい。

2005年1月4日
努力の尊さ刻むべき
これは昨日の日経社会面「賀詞交換 学校教育」欄の東京大学学長佐々木毅氏のお話の見出しです。
学校教育は、無限の可能性を持った世代を対象にしており、この可能性を高いレベルで実感させ、努力の大切さを刻み込むことが大切だと言われています。
「勉強」もこのための手段ですね。
今、社会的影響が検証もされずにだらだらと流れ込んできています。その中の一つが「即戦力教育」ですね。無原則にすぐ役にたつといわれるものだけを教えており、この効果の検証も無責任ですね。
なにがどのように役にたつかは、実際の場面に遭遇しないと解りませんね。でも、基礎基本をしっかりして探究心、向上心、忍耐力を努力してその成果を実感させておく方がよほど良いのでは。
そのとき、評価には「マーク式」や「択一式」「穴埋め」みたいなものは使わないで欲しいですね。評価が良くないことも現状を悪化させているのだと思います。
学習の動機付け、ひどいケースが多いですね。校内の順位などを平気で考える教師が結構多いようです。これって、無限の可能性を摘み取っているようなものだと思います。