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主に教育関係を集めました。新しいものが先頭になるように配置しています。
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2006年12月30日
福井県で知事の政策公約「センター試験平均点10位以内」のため、センター試験受験人数で教員加配

12月30日の朝日新聞の社会面に出ていた記事です。これに類する話が中国地方のある県であったように記憶しています。「県内のセンター試験受験生の平均点が全国平均より悪い」とかというものでした。
福井県って、「教育困難校が全くない」ところなのでしょうか。東京大学名誉教授のコメントもでていました。「教育困難な生徒を優先するべきでは」とことです。
府県別センター試験平均点ですが、これは予備校などの業者が行っている「センター自己採点」の集計結果です。
自己採点結果の提出は受験生全員ではないので、「誤差」は大きいと思います。成績不振者は自己採点結果を提出しない場合が多いですね。それと、センター試験は余分な科目も受験する場合が多くありますので、平均点はさらに?の状態になりますが、そういうことも分かっていないのでしょうね、知事は。
この知事公約、かつての文部省全国学力テストの悪夢がよみがえってくるような発想ですね。西日本のある地域で加熱しましたね。学校平均点がたしか90%を超えたとか。
まあ、センター試験はカンニングも出来ませんし、事前特訓も出来ませんから日常の教育活動が大切になるのですが、教育困難なところを差し置いて特に加配する必要があるのかな。小規模校はどうしても不利ですね。
都会の生徒に負けないようにという意味もあるようですが、加配しなくても出来るのでは。都会の大学に進学するとそのまま、大都市で就職してしまう場合が多いとも考えられますね。
それでなくても「人口減少」が起こりだした日本、人口流出が起こりかねないような施策と思うのは勘ぐりすぎでしょうか。

2006年12月14日
教育基本法改定案を参議院特別委員会で可決

12月14日に参議院特別委員会で可決されました。
教育基本法改正案ではなく改定案とさせてもらいます。
はっきり言って改定する必要はないと思っています。
なぜなら、あの昭和初期、愛国心に満ちあふれていましたね。そして、愛国心を声高にいっていた・・などは敗戦のどさくさなどで兵卒などを戦場に置き去りにしたりして。
まあ、司馬遼太郎氏の「雑談 昭和への道」などをよく読んでみてください。これ以外にもあの当時の状況を裏側からも考えることの出来る情報は結構出てきていますよ。
今の教育の状況ですが、愛国心もないような税金の使い方、「金」「金」の風潮など大人の醸し出す雰囲気のたまものでは。
高校の履修漏れも大人の勉強に対する考え方を高校生が反応し、それを高校が追っかけた結果だと思います。
それと、高校入試での「内申書重視」、この結果、中学校3年間全学年が相対評価の競争に巻き込まれました。そして、内申点で生徒を抑えるなどということも起こったりしたというのです。
相対評価ですから、各個人の到達度など関係なく、「皆でサボれば怖くない」と開き直られると勉強なんてしなくなりますね。
基本法とは関係ないところでの大人の行為が原因で今の状況になっているのです。変えたところで、変化ないでしょう。

2006年12月11日
大学内での禁煙、岐阜大学で『学内喫煙に「イエロー」』カード

12月10日の日経「SUNDAY NIKKEIα」の医療面で岐阜大学の取り組みが紹介されていました。『 』内が見出しです。
岐阜大学では、昨年4月から学長の提唱で「学内禁煙」が始まったというのです。高校との違いは学生には20歳以上もいるということですね。高校みたいに「特別指導」とか出来ないので編み出されたのがサッカーに倣って「カード」を渡すというものです。
サッカーの場合、イエローカード2枚で退場でしたか。こちらのイエローカードには退場とかないのですが、意識の向上を目指すということだそうです。
でもね、大学にもなって「喫煙」するような学生は何を勉強してきたのでしょうか。
「勉強」と「現実」との乖離があるのでしょうね。それと「受験のため」のみの勉強、後々、役に立つかもしれないという意識すらない。
多くの大学で手を焼いているようです。キャンパス外まで行って喫煙するスポーツ関係学部や医療関係学部の学生などがまだいるようなので前途多難だと思いますが、各大学、頑張ってほしいですね。

2006年12月9日
2年生半数、留年危機 英語力検定が壁 横市大の学部

これは12月8日に朝日新聞のホームページにアップされていた記事の見出しです。
『藤野次雄・国際総合科学部長は「TOEFL500点は専門知識を大学で学ぶうえで出発点でしかなく、基準は緩められない。勉強方法での支援しかできない」と話す。』とありました。『「TOEIC600点以上」「英検準1級」』でもよいというのです。
ここでいいたいのは「なぜ英語を6年間以上勉強して?」ということかな。以前転職サイトを見ていたとき、ある信託銀行の国際業務担当では、TOEIC800点以上を求めていました。国内の普通のところでは400点以上だったと記憶しています。600点以上というのは妥当な線ではないでしょうか。
TOEICについては、公式ガイドブック(CD付属)を購入してしばらく勉強してみました。感じたのは、英語の発音きれいですね。洋画を英語、英語字幕で見ているのですが、TOEICのCDの発音は分かりやすいですね。
TOEFLはどのようなのでしょうか。英語の勉強だけではだめなような気もしました。語学は総合的な知識のいる分野では。今はあの必修漏れに象徴されるように「受験知識」のみをという勉強のさせ方がこのようなところに現れてきているのかも。
大学当局は妥協することなく頑張ってください。そして、このような基準を超えることが出来るかどうかが「評価」の第一歩であるということを広く世間に知らしめてほしいですね。
以前、会津大学でしたか、外国人教授が海外と同じように絶対的基準で成績評価をして「留年」が多数出たとき、御上の指導が入ったとか。その時、外国人教授は「出来ない学生を留年させてなぜ悪い」と嘆いたといいます。厳しいから会津大学が産業界で高く評価されることになったのではと思います。
日本技術者教育認定機構 (JABEE) の認定制度みたいな制度も、もっと広がっていくことも日本の教育の再生には必要なのでは。

2006年11月29日
教育再生会議が「いじめ対策で緊急提言」を発表

11月29日に教育再生会議が「いじめ対策で緊急提言」を発表しました。提言によると「いじめは反社会的な行為として絶対に許されないことであり、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する」としています。
そうでしょうね。いじめは大人社会でもなくならないですね。どうしてでしょうか。
いじめる側の子どもに対して毅然とした対応を取るようにというのは当然でしょう。しかし、その毅然とした対応の中に子どもの置かれている家庭環境なども含めた指導が必要ですね。
そのあたりが、「いじめの問題では家庭の責任も重大だとして、保護者が子どもにしっかりと向き合わなければならない」ということが提言の中に含まれていることからも伺えます。そして、地域社会もね。
教師がいじめのきっかけを作ったり、荷担するようなことは絶対あってはならないですね。「いじめにかかわったり、放置や助長をした教員に懲戒処分を適用すること」とあります。当然でしょう。
いじめをしている子どもの中には「自己の存在感」をもてない子もいるのでは。周りの大人が口先ではなく、心底から存在を認められたことのない子と思ったりします。
人間はある意味弱い存在ですので、誰かに存在を認めてもらえるということが必要なのかも。人間はほ乳類ですから、その第一歩が普通、母親、次が父親でしょうね。
この思いぐらいではいじめはなくならないと思いますが、いじめる側、いじめられる側どちらにも必要だと思います。

2006年11月27日
いじめ問題 学校評価を見直し

11月26日昼のニュースでこのことについてありました。
11月26日NHK日曜討論で伊吹文部科学大臣が《中教審・中央教育審議会の答申を踏まえて、文部科学省が『いじめがゼロの学校がよい学校だ』と指導してきたため、みんなよく見てもらいたいと思い、教員はいじめを隠し、教育委員会はいじめの報告をしないといった現象が起き、反省している」と述べました。そのうえで伊吹大臣は「いじめを見つけて対応した教員がよい教員であり、その結果いじめがなくなった学校がよい学校だ。教育行政の評価のあり方を少し変えなければならない」と述べ、いじめを隠ぺいする傾向をなくすため、いじめ問題をめぐる学校や教員の評価のあり方を見直す考えを示しました。》というのです。
隠蔽体質が起こる原因はよく見せたいというだけではないでしょう。日本の歴史を見れば、隠蔽し続けたため、現実が渡らなくなり、国を潰してしまったときもありますね。今、北朝鮮もよく似ていますね。
表面的な現象だけで物事を考える風潮も大きいですね。
オーストラリアでは「いじめは起こる」という前提で対策に取り組んでいます。そして、どうも根絶できないと思っているようです。だから、取りくみ続けることになるということです。
伊吹文部科学大臣は「取り組めばいじめがなくなる」と思っているようですね。そうするとしばらくすると今と同様な報告しかあがってこなくなると思います。
「いじめ」は人間の弱いところがでてきた問題です。差別解消と同様、非常に長期に渡る取り組みが必要な問題だと思います。非常に長期のね。」

2006年11月23日
学校での「国旗掲揚と国歌斉唱」

11月22日のYahooで見つけた時事通信の記事が次の見出しでした。『安倍首相「国旗国歌への敬意重要」=教基法改正案、参院で実質審議入り』です。
見出し通りの内容ですね。
ところで、日の丸、君が代を粗末に扱った勢力が以前ありましたね。その勢力が日本を戦争へと導き、大日本帝国憲法を改正せざるおえない状況に日本を追い込んだのと思っています。
今、「愛国心」を声高に唱えている勢力はこの点について「無視」しているとしか思えないのです。
当時、愛国心を国民に強要していた勢力は「国民」を大切には扱っていなかったですね。さらに、国政に対する自由な議論すら封殺してしまっていた。横浜事件のその一例でしょう。
あの時の反省、検証を口先だけではなく、本心からは行っていない。また、日本が以前の状況に戻っていきそうな予感がするのです。
当時の学校の状況を考えると、首相の言葉に寒気を覚えるのは私だけでしょうか。
日本を潰さないためにも「歴史を鏡」にしてください。「日の丸、君が代」に罪はないのです。粗末に扱って日本を潰した勢力が悪いのです。

2006年11月17日
いじめについての一考察

いじめの要因はいくつもあり、複雑に絡み合っている場合が多いと思います。その中で「ある特定の一面」から考えてみたいと思います。
その前に「差別問題」がなかなか解消できませんね。各方面が熱心に取り組んでいます。でも、解消できません。
その原因の一つが「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という言葉が核心をついているのではと思います。人間の悲しい性格ですかな。差別問題の取り組みにおいての重要課題だと思います。
いじめをこの方面から考えると、いじめる側は「優位」だと思っているのでは。自分の存在を強調できると思います。
人間を序列だけで評価すると上位者は:まあよいとしても下位者は存在感のなさが出てくるのでは。どこかに、自分が存在していることを示したくなる。それが、悪い方向に向かうといじめとかに繋がりやすいと思うのです。そして、状況によっては上位者もです。
各個人を順番ではなく、成長の度合いをうまく評価すれば、そして、いくつもの尺度で評価すれば、いまより減少するのではと思いまし。
文部科学省が「絶対評価」を勧めるようにしているのが、教育現場では機能していないと思われるのです。高等学校は以前から「絶対評価」のはずなのに完璧な「相対評価」のところもあります。
他人と比べて評価するというのを少なくするだけでも、幾分かいじめが減少するのではと考えています。
オーストラリアでは「いじめは起こる」という前提で対策に取り組んでいると11月19日のNHK海外ネットワークで紹介されていました。

2006年11月11日
大阪市も歩きタバコ禁止へ、なぜ続く運動部の喫煙

11月11日の朝日新聞によると、大阪市は「路上での歩きたばこや自転車に乗りながらの喫煙を禁止し、違反すれば1000円の過料(違反金)を徴収する条例案を、来年2月の市議会に提出する。」と発表したというのです。
キタやミナミ、御堂筋など人通りの多いところを「路上喫煙禁止地区」に指定するとのことです。
周知徹底などのため、来年秋スタートさせる予定です。禁煙への取り組みが広がってきています。
その割に、運動部の生徒の喫煙がなかなか減りませんね。11月11日の朝日新聞のホームページに「駒大苫小牧野球部、3年生が寮で喫煙」というのがありました。
全国的に有名な野球部だったため、全国ニュースになったのだと思います。そうでない運動部の生徒の喫煙は普通なのかもしれませんね。
「運動に喫煙は大敵」です。喫煙による一酸化炭素で赤血球が占拠され、筋肉に十分な酸素が送られなくなります。当然、脳にもね。
タールなどが肺に沈着して呼吸機能が低下します。こちらは禁煙しても元には戻りません。
こうも多いのは、部指導者に「喫煙者」が多いのも影響しているはずです。
ある体育学部では学生に喫煙対策に悩まされているし、別のところでは大学敷地内禁煙なので外にまで行って喫煙している学生がいるというのです。
何の勉強をしているのか自覚がないですね。そのようなのが指導者になると「子どもは大人の背中を見て育つ」ですからね。
医療関係や体育健康関係の関係者で禁煙している人はどのような教育を受けてきたのでしょうか。

2006年11月8日
日本語が通じない?

11月8日(水)放送 クローズアップ現代は「どうする 若者の“日本語力”」というテーマでした。
確かに今の状況では、長〜い文章を書く機会が減少していますね。そして、本を読むこともね。論述させることと感想文とか日記は違うと思うのですが、どちらにしても減ってきているようです。
簡単なはずの「単語」の意味を知ろうとしないというか理解しようとしないから、文章が読めない。読めないから読まない。と悪循環を起こしているようです。
携帯などのメールは、大抵絵文字や顔文字も併用して表現しているようですが、短いことが多いですね。私もメールでは顔文字を使っています。
この書き込みにも時々、コメントが付きます。それを読むとよくここまでこちらの意図を読み外してくれたと思うようなコメントがたまにあったりします。こちらの書き方が悪かったのかなと思うのですが、この放送を見て「語彙」のズレによるところも大きいようだと思いました。
それで、題に「日本語が通じない?」というのを使わせていただきました。
番組に中で、手書きと携帯で文を書くときに使われる脳の部分を調べる実験も放送されていました。手書きの方は脳の大部分を使っていましたが、携帯の方は一部分だけでした。
こうなると、語彙力の低下だけではなく「脳力」も低下する危険があるのではと思います。人間の機能は使わないと衰えます。ということは、認知症などになりやすくなるということかな。
印刷物の長文を読み、手書きや長文を書き、漢字力や語彙力を高めるように「マークシート」式のテストは止めましょう。
センター試験は、基礎力確認テストくらいの位置づけ(得点を合否判定には使わず、基準点に達しない場合は大学を受験させない)で大学進学希望者は全教科、全科目必修にして、個々の大学は「長文手書きのある入試」にしてほしいですね。

2006年11月6日
群馬大学医学部の2005年度入試で年齢を理由に不合格 裁判所などは人生再チャレンジさせる気があるのか?

11月6日に朝日新聞のホームページで見つけました。詳しくはホームページでお願いします。
不合格にされた受験生が前橋地裁に訴えていましたが、却下されたので東京高等裁判所に控訴したということです。
世の中、年齢不問に向かわせようとしているときに時代錯誤的な判断、判決ですね。
以前から、異なる年齢、それも年の離れた学生や生徒が同じ教室で勉強する効果はよく言われていることですね。若者の方が成長するとね。その効果も考える年齢で制限する必要はないと思います。
雇用の場で問題になっているのは「新卒採用」時以外、正社員への採用が職歴のある者に偏っていることでしょうね。何らかの理由で就職できなかった者のリターンマッチがしにくいということでしょうか。
教育の場においても「年齢制限」を入れると言うことは「人生のやり直し」の機会を奪うものだといわざるえないですね。
「採挑戦のできる社会」の構築が求められている時代に沿うようになってほしいですね。一度、失敗したら挽回できない社会では夢も希望のありませんからね

2006年11月2日
履修漏れやその救済策から思うこと

履修漏れが高校数の一割ほどであったということで落ち着きそうですね。
これを考える上で日本の教育観というものが至るところで変質している可能性ですね。「近視眼的に役に立つかどうか」だけに。
学習の多くはすぐには役に立つかどうかは分からないですね。その点、受験対策というのは効果が結構分かりやすいです。でもね、「覚える」ということだけで役に立つのでしょうか。
多くの小中学生がそして大学生がテストのために学習しては、すぐに忘れるというのを繰り返している感じです。これは、「人間は学習をして、漸く人間になることができる」というのを忘れていたりでしょうね。原因は「大人」です。子どもはその言動をよく見ていますよ。
その大人の教師がおこなったのがこの履修漏れというか規則違反ですね。公文書にウソを記載するということを平気でしているのです。
どこかの私学では、やらなくてよい理科4科目をTとU両方、地歴も3科目していたのかもしれませんね。これの方はまだ、まだ許せます。どうしてかというと、高校生ぐらいまでは幅広く学習することが必要だと確信しているからです。
11月2日の日経社会面に大学生の話が出ていて、ある学生は「日本史と世界史」の両方を履修していて、教養や常識が深くなって今後の人生に役に立つはずというようなことをいっていました。
また、何年か前に満ち微志電機の社長が理系の生徒もしっかりと歴史を勉強してほしいとね。文系で数学、理科なども重要ですね。数学に関しては9月10月に書かさせていただきました。
目先のことだけ考えて数学を捨てて私学の経済学に進学した者と数学で受験して進学した者では、後者の方が年収が高いのです。大学卒業後も使える高校教育になってほしいですね。
救済策ですが、生徒には責任はないですね。学校側の問題です。そして、監督官庁のね。監督官庁の責任逃れ的体質から考えるとこの程度になるのが妥当な線でしょう。

2006年10月27日
高校での履修不足の根源的な原因

昨日の続きみたいになりました。重複もあると思いますがよろしくお願いします。
高校の評価がどのような基準でされているのか。ということも大きいですね。
教育理念とか、それによる教育実践の状況ではなく「大学進学状況」であったり、甲子園出場であったり、偏っていると思います。
大学を評価する基準を入試難易度に求めている人も多いですね。入試難易度は単なる人気の度合いですね。大学の内容と一致しない場合も多いと思います。
でも、難易度の高い大学への合格数で評価してしまっている現状があります。公立も私立も高校は人気商売ですから、どうしても庶民受けの方向に走りますね。その行き着く先の結果では。
この状況を改革するには昨日、書いた方法も一つだとは思うのですが、さらに大学の入試方法の発想の転換、進級に際しての要件の厳格化、早く言うと入試はボチボチ(一見不公平に見えるかも)、進級に関して厳格にして、高校で幅広く学習できるように、且つ、幅広く学習していないと大学での進級に支障を来すようにしてほしいですね。
大体から、センター試験の得点を合否判定の重要資料にするからいけないのです。京都大学の理学部のように基準点方式にするべきです。センター試験を多教科多科目受験させることですね。そうして、大学にもなっているのですからもっと沢山留年させてもよいのでは。なぜ、高校みたいな担任制度がいるのか。
もっと、大学で勉強させなさい。そして、自らの意志で勉強する習慣が付き、教育目標を超えた者のみ、卒業させるようにするべきでしょうね。また、企業に内定していろうが基準に達しなければ卒業延期。そして、その学生に内定を出した企業は面接など選考をしているのですから「採用」するべきですね。「卒業できないときは内定取り消す」とかしたいのなら4年の卒業直前の2月以降から求人活動をしなさいという感じです。
いろいろな問題が今回、受験対策ということで表面に出てきたのなど思います。

2006年10月26日
高等学校における必修科目の未履修問題の根源

富山県のT高校で発覚してから各地でぞろぞろ出てきていますね。それも受験校といわれるようなところですね。
この根源は私立大学文系受験で数学を捨てさせるような指導をする意識と同じですね。「勉強は受験のためにのみする」という医師ですね。
数学を勉強しないとどうなるかということは先月および少し前にも書きましたし、京都大学の西村教授が10月26日の日経「経済教室」にも書かれています。
私の書き込みのネタは西村教授のデータからです。
全ての学校ではないですが、私立の進学校の中には理科では物理、化学、生物、地学を全て教えていたり、日本史のセンター試験対策で「歴史小説を読んで・・・」というようなところもあります。中高一貫の強みでしょうね。
大学に進学後、さらにはその先のことを考えれば、そして何より幅広く教養を深める方が受験勉強も捗るのではないかと感じるのです。
例えば、英語の入試問題の題材に制限がありますか。化学や生物に素養がない場合、環境問題などの長文読解には時間がかかりますね。歴史的な題もありますね。国語の評論文もですね。
世界史と日本史と地理の相互関係は密接ですね。ですから、同じ教科に入っているのです。
そのようなことなどに思いをはせずに「目先の得点」のみに執着した結果ではないかと思うのです。
今の日本の現状では大学進学希望者は推薦であろうがAO入試であろうが私立であろうが大学入試センター試験全科目を受験させてもいいのでは。このタイプの全科目受験は基準点方式でね。基準点に達したどうかね。そして、1年からでも受験できるでよいと思います。しばらくはこのような形で強制的に勉強させるほかないかも。
大学受験の時、理系学部に進学しながら地歴公民科目の方が良かった元受験生の意見です。歴史は日本史も世界史も面白いですよ。よい歳になっても結構覚えています。
勉強自体が楽しくなればよく覚えれますよ。

2006年10月23日
数学五輪の出場者、数学研究者になったのは1割以下→ところで数学の有効性は

10月21日の朝日新聞のホームページで見つけました。「数学五輪の出場者、数学研究者になったのは1割以下」が記事の見出しです。「ところで数学の有効性は」は私が付けました。
先月20日に「入試で数学を選択しなければ年収に響くという仰天調査」という題で書かせていただきました。「数学の有効性」を示す週刊ダイヤモンドの特集の記事でした。
本日の記事は数学五輪の出場者がそのような進路を取ったかということとその感想から、数学の研究者になるだけが数学を生かす道みたいな印象を読者に与えているように思います。ものすごく誤解を招くような感じですね。
今、情報化社会とかいわれていますが、情報の意味を確かにする重要な手段は統計数学的解析では。統計数学による解析結果からどのように判断するのかは各個人の問題ですが、ともかく、情報の価値を考える一要素として数学は大切ですね。
数学の研究者にもっとなれればよいと思います。でも、自然科学系のみならず社会科学、人文科学でも数学的思考法は必要のはずです。
医師が多いのは、数学ができる生徒は成績もよいのでこのうちの何%かは「進学先としての医学部至上主義」に染まっている教師や親の影響もあるのでは。
何年か前に数学五輪の出場者の出場者に高校の教師がしつこく医学部進学を勧めていたのが放送されたことがあります。本人は医学部志望ではなかったようです。
微積分は運動の法則のニュートンによって基礎が造られたと思います。物理と数学は切り離せない存在かな。
学校の勉強が受験や進路と直接結びつかない場合に「役に立たない」とか思うのは間違っていると考えます。

2006年10月21日
学習は知行一致(文武両道)で。

最近、首相の交代があったためか「教育」論議が盛んになってきたように思います。
またぞろ、教育基本法の改定の議論が出ていますね。教育の方法、考え方で「絶対的に正しい」というのがあるのかなと「改正」ではなく「改定」を使います。
教育の目的についてはついてもいろいろあるようですが、「人間は学習をしてのみ人間になれる」ということを前提に考えると「人間になるため」ですね。
躾も学習です。ことばも学習して覚えます。ただ、今、蔓延してる考え方「テストのための勉強」との違いは日常生活で出力されることですね。
「学習」できたかどうかは、「日常生活(仕事を含む)で使える」ことですね。そして、日常では、なにが起こるか分かりませんね。入試と違って、あらかじめ、これだけでよいという範囲はないですね。
仕事や生活の場などでその人の価値を高めるようにするのは「学習したこと」が基礎になると考えています。その質が悪いと太平洋戦争に突入していった当時の政権中枢の人物や日露戦争の第4軍の参謀長やノモンハン事件の指揮官やバブル期の経営者や公共事業にのみ固執するやからばどを排出することになるのでは。
司馬遼太郎氏によると日本軍の陸軍大学出身者は教えられたことはよく覚えていたというのですね。そして、そのまま、作戦を立て、戦ったとね。
ヨーロッパ戦線ではほとんど見られない突撃多用とかね。現実になった出力ができなかったというのです。これは、知と行が分離してしまった学習をしてきたためかな。
多くのテストで択一式が多用されていますね。これでは、知識を勉強しても出力に使えない危険が高いですね。
養老氏の本によると、文武両道で「文」が知識などの学習で「武」がそれを活用した出力だというのですね。知行一致と同じような意味ですかな。
今、非常に短絡的な発想の勉強法が結構蔓延ってます。「暗記」だけに走って「理解」し、そして「使える」ようにしないから「忘れる」。「忘れる」からまた「暗記」でも「理解」していないから「忘れる」。悪循環ですね。
「人間は学習をしてのみ人間になれる」を忘れないでほしいですね。
魚は生まれれば、魚として生きていきます。ライオンやシャチの狩りは「学習」だそうです。チンパンジーの子育ても「学習」、高等になるほど、学習の重要性は増します。それも知行一致タイプの学習がね。

2006年10月20日
「できない」と「やらない」

10月20日の日経文化面「文化」は日本画家の南正文氏でした。子どもの時、事故で両腕を失われましたが、14歳の時、京都の大石順教氏に弟子入りして日本画家への道を進まれました。
大石氏が「筆を口でくわえて描きなさい」という指導に対して「できない」というか「足で描きたい」と認めてくれなかったというのです。それで、口で筆をくわえて描き上げたというのです。
ここで南正文氏は「やらない」から「できない」のであって、「できない」と思いこんで「やらない」のなら「できない」ままになるという「できない」と「やらない」の違いを実感されたというのです。
ところで、今、練習とかすれば「できる」ことを「練習をやらない」で「できない」といっている場合が多くなるのではと感じています。人間、全てをできるようになるわけはないですが、何か打ち込んで「できる」ようになるということはできると思います。
でも、どの分野でも最初は上達が早いですが、ある程度上達すると停滞期に入ることが多いですね。そこで、諦めてしまえば「できない」ままですね。「やらない」から「できない」状態から脱出できないのではと思います。南正文氏の書かれた真意とはずれていると思います。済みません。
私も生きている間、常に何かに取り組んでいきたいと思います。で、今はといわれますと「この書き込みをより分かりやすくしたい」かな。未熟なもので読みづらい点が多々あると思いますが、今しばらくご容赦ください。
次のホームページに南正文氏の紹介があります。南正文氏の書かれた真意とはずれていると思います。
口と足で描く芸術家出版

2006年10月16日
日本の児童生徒の学力調査

10月16日は月曜日ですにで、日経は毎週の「教育面」がありました。
メインの寄稿は「全国規模の学力検査」についてでした。結構な金額をかけて実施するのですね。
この記事によるとアメリカではサンプル調査、しかし継続的におこない改善を加え続けているとか。
日本もその昔、「全国一斉学力テスト」なるものをしていたようですね。そこでは、どこどこ小学校の平均点が90点以上とか(100点満点に換算して)いう異常状態が出現したとも聞きます。
こどもの学力より「見栄」に終始した県があったとか。今回は久しぶりですので、そのようなことはないと思いますが心配です。サンプルでした何年か前のとき、その学校で優秀だといわれる生徒の多いクラスのみで実施したところもあったみたいです。これは、以前の学力テストの後遺症でしょうか。
島根県でしたか、センター試験の自己採点の平均点でなにかがたがたしましたね。これらで見られることは「学力」より高得点のほうに走っていることですね。で、「学力」とは何なのでしょうか。「記憶」すること?→コンピューターの記憶装置の方がましですよ。人間としての学力とは。自己啓発力、自己改革力、旺盛な好奇心を支えるものなどいくつもの要素から構成されるものだと思います。
それをある一つの価値観で測定しようとするから問題が起こるのではと思います。
アメリカは「統計的」考え方にも重きを置いているようですね。日本は「統計の数字」は出しますが、解釈は疑問符付きの場合がやたらと多いと思います。特に親などの教育対する考え方や教育現場、行政でね。
より良い教育にするため、この新聞記事にも書かれていましたように今回からの学力検査にはアメリカの取り組みを十分参考にして以前のような失敗をしないでほしいですね。

2006年10月15日
統計の扱いに注意→誤解やごまかしにあわないために

このような題にしたのは、いくつかの経済系の雑誌にあった記事を読んでふと思ったのです。学校教育現場での数学軽視の影響かと思えました。
ダレル・ハフ著高木秀玄翻訳講談社「統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門」という本がありますので読んでみてください。税込み924円です。
最近、週刊××××に「本当に△△大学」なる特集が出ていました。よく似た記事は週刊○○○○○○や□□□□□□などでもよく出ています。それを欠かさずとはいいませんがせっせと購入しているのです。
就職率で高い方からのランキングが出ていました。率は高いですね。でもね、国立大学の教育学部の就職率ですが、教諭に採用されたものと期限付きや時間講師も含んだ率のようですね。ほかの学部や私学はどうなのでしょうか。
大学の特集なので出ていないのですが、専門学校ではピンからキリですね。実際に正社員で率の高いところから在学中からのバイト先までいれているところいろいろだそうです。
卒業後の年収ですが、昨年、今年と特集していた□□□□□□誌では、算定基準が判りやすいところに書いていないのです。算定人数のばらつきが大きすぎる。昨年は1人のみで出ていた大学があった、入試偏差値100という大学が2つあったり、???だらけでした。
今回の方は算定基準(就職先企業一覧)があったのですが、卒業生全体に対する割合では記事のなかの記述の方がまともですね。トップになった大学の残りの9割の学生はどこに就職したのでしょうか。それを含むとどうなるのでしょうか。別の大学ではその有名企業群に4割も就職しています。どっちが就職によいのでしょうか。???です。
もっと、統計を大切に考えてほしいですね。同人誌でない全国に広く販売している雑誌です。勉強し直していただきたいと思います。文系でも数学をしっかりやってほしいですね。それも統計の概念もわかる数学をね。
結局は読者は各大学の就職状況を自分で調べて比較するほか内のかなという思いです。
社長とかになりやすさはその年代の卒業生の話(雑誌にも書いてあります。)で、今の就職状況とは一致しない場合も多いようですね。

2006年9月28日
小学校の英語必修化について、伊吹文科相が慎重姿勢しめす

9月28日の日経社会面の記事によると、小学校での「英語必修化」をめぐり、伊吹文部科学大臣が『「美しい日本語が話せず書けないのに、外国語を教えてもだめ。必要は全くない」との考えを明らかにした。』というのです。そして、『「最低限の日本語などを身につけた上で必修化するのはよい」』と言われていますが、時期尚早との指摘です。
文部科学省や大臣のすることに批判的なことを「諸々の言いたいこと」で書いている場合が多いのですが、この件に関しては「日本語」の方が先ではと思います。最近のNHKニュースのアナウンスが「短い文」をつなげている感じがしています。書き言葉では「改行」を多用しているような感じです。これは、「日本語力」の低下に対する配慮かなと勘ぐったりしています。
この書き込みも常にどのように理解してもらえるかを考えながらしているのですが、大抵、時間に追われて書き上げアップしてしまっています。このおかげに表現について以前よりはよく考えるようになりました。今の子どもは改まった形での日本語による意思疎通の練習が不足しているのでは。どうして、不足の度合いが大きくなってきたのかについては分かりません。
学校でのテストや入試においてマーク式解答等で「論述式解答」が減ってきていることも日本語力の低下の一つの原因かもしれませんね。
日本語をしっかり使えることの方がほとんどの国民にとって重要だと思います。
明日はお休みさせていただくかもしれません。

2006年9月25日
「働く意味」考えよ。子どもたちがフリーターになるのを防ごう。

『「働く意味」考えよ』は9月25日日経教育面「教育」の見出しです。フリーターやニート予備軍、まあ、高校生などですね。それらの子らを相手に「働く意味」などの啓蒙活動をされている方が寄稿されていました。
その中で「収入」のことですね。断面的な情報しか得ていない様子が書かれていました。例えば、先輩から月に40万円稼いだとか聞いているのですが、その内訳には?のようですね。どのような職種で期間は?フリーターの場合、短期雇用でしょうね。年間でどのくらいになるかという意識がないというのです。
当然、生涯賃金なんて考えたこともないというのです。
そこで、生涯賃金比較をすると結構判ってくれるというのです。でも、数の量的感覚ができていない生徒には理解はきついかも。
ある雑誌によると、フリーターの生涯賃金は約6000万年程度、40年働くとして一年あたり約150万円、月当たり約15万円程度です。これは、高校卒業してすぐ就職した場合初任給を下回っていると思います。
中学卒業ですぐ小企業に就職した場合でもこれの2倍以上になるようです。一時間1000円の仕事で日に8時間働くと8000円、月25日労働で20万円、で、フリーターの場合、健康保険や年金の企業負担もない場合がほとんどですね。見かけ以上の差が出ていると思います。
このあたりの現実を見ていない、見る気がない、見る方法を知らない、どれか判らないですが世間知らずそのものという感じです。これも「学校での勉強は役に立たない」とかいうような教師のいる教育のなせる技かな。

2006年9月23日
「指導力不足」教員も問題だが、学習の意味を壊す受験科目至上主義教師も問題のはず

9月23日の各新聞に「「指導力不足」教員、05年度は506人」とかの見出しで文部科学鳥の調査結果が出ていました。「音楽の教師なのに生徒の前で歌えない」「生徒が理解できていないのに一方的に授業をすsめる」「自習時間が多い」とかあるようです。
各教育委員会の判定基準で東京都は「広く豊かな教養に欠ける」というのを上げています。この幅広い教養というのは小学校から各教科を勉強していくことによって基礎が形成され、各自の自主的研鑽によって身に付くものだと思います。
受験勉強については、例えば受験科目にないからと数学を勉強しないとどうなるのかについては9月20日に週刊 ダイヤモンドの特集記事より書きました。数学を勉強していないと辛いことになる可能性が高いということです。
私立大学文系志願者にたいして「数学を勉強しなくてよい」などという教師も非常に問題ですね。生涯で数千万円の損害を生徒に与えることになります。このようなのも「問題教師」ではないでしょうか。
ダイエットで事故が起こったりしていますね。これは、生物、家庭科科目、保健科目の重要性を理解していない教師が多いためでは。「保健」を教えていて生徒のまで「たばこ」を吸っている教師、勉強の意味を否定すると問題教師では。もっとも、敷地内禁煙の学校が増えてきていますから減少はすると思います。
現代社会という科目は今の社会の概略を学ばせている。もっと、大事にしてほしいですね。数学の力のない一番の原因は「国語力」だったりえうるかも。
長年かかって、国語、社会、数学、理科、英語、体育、芸術、家庭科などが必修で教えられてきたのはそれなりに理由のあることだったのです。それを「受験科目でないから勉強しなくてよい」というような雰囲気を生徒に与える教師も問題教師と思います。
そうそう、人間は「学習」をすることによって人間になっていきます。よく考えてみてくださいね。「ことば」「歩行」「遊び」「携帯の使用方法」などなど学習した、または学習したことを使うことによってできることばかりですね。
けいたいなどのでんしめーるをひらかなだけでおくってみてください。よみにくくなるとおもいます。かたかなのみはもっとよみにくかも。かおもじをいれるとすこしはよみやすくなりとおもいますが、かんじをつかうともっとよみやすくなるとおもいます。かんじのべんきょうしましょう。

2006年9月20日
入試で数学を選択しなければ年収に響くという仰天調査

これは週刊 ダイヤモンド9月23日号の特集(1)の「出世できる大学」の中にあった記事の見出しです。詳しくはこの週刊誌をお買い求めの上、読んでください。
有名私立大学の文系のある学部の入試で数学を選択したか否かでどうなったかを京都大学西村教授らがアンケート調査した結果からです。
調査結果によると年収で100万円ほどぼ開きがあったというのです。当然、高収入者は「数学選択者」です。、まあ、平均ですのどちらも結構の広がりがあると思います。
高校の大学受験対策で私立文系の場合、数学が軽視されていますね。やっていても「算数」に毛の生えた程度というところも多いのでは。
ここでいう「数学」とは、「論証」も取り組んだ場合だと思います。
高校の授業で「論証」をするのは数学ぐらいですからね。ただ、計算問題だけで終わるようでは効果は低いかも。
俗にいう文系学部で「経済学部」は「数学」が判らない、できないというのはメインの分野を理解できない可能性が非常に高いですね。
アメリカから始まった金融商品のほとんどは、日本でいう理系出身者が開発したそうです。数学を勉強しないというのはこのようなところにも影響が出てきてるということですね。
俗にいう理系を選んだ生徒への人文系や社会科学系の科目の履修を増やすべきですね。文系の方は数学と理科とをね。いまのカリキュラムでは全ての科目をある程度以上履修できるのは中高一貫校ぐらいかもしれませんね。但し、気をつけてくださいね。学校によったらひどい偏りの「受験」しか意識にない学校もあるかもしれません。
バランスのとれた学習が後の成長を促進すると考えます。

2006年9月15日
オウム・松本被告の死刑が確定→なぜ、若者が割と新興宗教などに走りやすいのか。

最高裁での判断が出ましたね。交際で「控訴趣意書」を期限までに提出できなかっためです。記事によりますと再建8月の期限後に精神鑑定もしているのですね。
ところで、オウム真理教といい、摂理といい、統一協会とか大学生が簡単に信者になっていますね。この原因は何なのでしょうか。
一つには「思考を停止」させた勉強が大きな原因かな。教師などから「信ずれば救われる」みたいに兎に角「暗記」に走ってしまった結果なのか。
「よい意味で疑う」ということをしない学生が多いのでしょうね。
振り込め詐欺も同様でしょうか。
「よい意味での経験」の不足、書物上も含めて経験の違いというのも大きいでしょうか。
人間は「学習」して漸く人間になれるのです。この「学習」の範囲は大学の入試科目より広いです。このことを判っていないのが教師の中に多数います。世間一般の効率主義、非常に非効率的では、考え直すべきでしょう。、

2006年9月5日
冥王星ショック→知識とどう向き合えばよいのか。

「冥王星ショック」というのは9月4日日経教育面「まなび再考」の見出しでした。もう一つの見出し『「絶対的でない知」どう理解』というものです。
内容は新聞を読んでいただければと思います。国際天文学連合が惑星についての新たな定義を採択したことに関連しています。
『「知が絶対的ではない」という「知」をどのように子どもたちに教えたら良いのだろう。』と書かれています。
冥王星は惑星と言われようが、そうでないと言われようが太陽の周りを公転し続けていることには変わりがないですね。
何が変わったのか。新しい冥王星みたいな星が発見され、惑星と言うには疑問が出てきたからですね。
それで、新しい定義となったわけです。
知識というものは新しい知識が蓄積され、体系化されてくると以前からの考え方に変更を迫り、そして、変更されることもあるとことです。
場合によると今まで信じられていたものが「間違い」であったと言うこともありますね。
しっかりと根拠のある知識は絶対的ではないかもしれませんが、あやふやなものではないですね。
これを機会に「知識」に関する態度を見直してみる必要が必要があるのでは。
「知識」の丸暗記が推奨されているような受験教育が異常だと思います。
教科書における知識も文部科学省の検定を受けています。そこには、「文部科学省」のフィルターがかかっているわけですね。
単行本、週刊誌では著者や編集者、出版社などのフィルターがね。インターネットでは発信者の。
ですから、それらを取り除くことのできる能力を子どもたちに身につけさせるのが教育の一つの目的ではと思います。

2006年9月4日
小学生の計算力「小学生9千人調査 課題は「計算理解力」」

9月2日付各新聞にのっていたと思います。『文部科学省所管の財団法人「総合初等教育研究所」が全国の小学生約9000人を対象に実施した計算力調査で、単純に数式を解く計算技能よりも、計算技能を支える「理解力」に課題があることがわかった。』というものです。
筆算のみというか数字のみの訓練ですと陥りやすい問題点だと思います。例えば、小数点のかけ算を小数点の位取りだけで計算させていると、新聞にあった例の0.7×0.4おとき、0.4の量的感覚がないと2.8と答えてもおかしいと思わない可能性が高いです。
新聞に0.7とかと2.8を比べたらわかるはずとか言うのがありましたが、「量的感覚」というのが形成されていないと理解できないでしょうね。・文式学習法の弱点ですね。量的感覚形成と連携させてできているところは・文式でも効果は高いかな。・マス計算の同様の問題点があると思います。
実生活では具体的な数量を計算することになるのですが、どの程度の大きさまで理解できるかは小学生の時が大事なようですね。
実生活と学校の学習との乖離が年々ひどくなってきているかも。
この記事にもありますが「国語力」ですね。計算以外の部分は「ことば」で表しますからね。小数点はどのようなものか理解できていれば量的感覚、計算力で間違うことが非常に少なくなると思います。
この全ての分野の思考は「ことば」で始まると言ってもように思うのですが、国語の時間はあってもそれが結びつきにくいようですね。
バーチャルが増えて、実体験が少なくなってきているのも原因の一つでしょう。一つ一つの事象をどうことばで表現されているかを考えなくなってきているみたいです。学力低下の深刻さを物語っていると思います。

2006年9月2日
文化とは

文化とか、代々獲得してきたこと、過去にしてきたことを無批判に受け継ぐことでしょうか。無批判に受けついてきたソ連の体制は結局激烈な変革をしましたね。
イギリスの政治体制はおだやかな変革を繰り返してきたと思います。これは、イギリスの文化によるところが大きいと思います。フランスは「革命」ですね。
政治体制もそれぞれの国の文化の一部だと思います。その国の文化が持続的に発展していくために必要なことは何なのでしょうか。
8月31日日経「私の履歴書」小堀宗慶氏で次のように文化について述べられています。
「文化とは、代々獲得してきた智恵を次代に伝え、それが長い歴史に淘汰せれ磨かれたものである。昔からのしきたりをただ受け継ぐだけで、その代で獲得した経験智恵を付加して次に伝えられなければ、それは文化の生命を枯らすことになると思う。」とです。
文化全体、その一部である政治的なことも含まれているように感じました。
日本において政治的な面では「昔からのしきたり」をそのまま受け継ごうとする勢力が強すぎる気がします。だから、明治維新で大変革になってしまったと思います。
その後、大日本帝国憲法ができ、日清日露両戦争に勝利していきますが、その過程で「失敗」部分の隠蔽が顕著になってきたと思うのです。都合の良い部分のみで物事を考えるという「文化」が為政者の間に広まってあの戦争に突入してしまったのでは。
官僚の精神構造は当時とそしてそれ以前と代わりがないように思われます。
「文化が枯れる」というのはその民族の存在意義が枯れることであると考えます。現状では再び枯れる方向に向かいそうな気がしてならないのです。
枯れないようにするために「歴史を鏡とする」ということも持つ文化を気づく必要があると思います。日本を潰さないために。

2006年8月31日
がんの痛み緩和治療

朝日新聞のホームページで7月20日に「がんの痛み抑える薬の知識、医師の半数知らず」という記事が、8月28日に「がんの痛み緩和治療に重点 医師に薬物処方研修」というのがあるのを今頃見つけました。
日本の医師は医学部を卒業後、研修機会が少ないようですね。政府はもっと気楽に研修できる機会を作るべきです。そうしてこなかったからではないでしょうか。
がんの痛みには「モルヒネ」が一番効果があるというのです。欧米では、もうズーと以前から必要量が投与されているというのですね。このことは、アメリカの医師免許を取得された赤津氏の書かれたアメリカの医学教育事情の本にもでていました。
WHOのこの件へのレポートは20年ほど前に出ているはずです。ここにも、厚生労働省や関係者の鈍さがでているとおもいます。
そして、患者は痛みに苦しんでいるのです。赤津氏によると「患者が痛みによって苦しむのは医師の怠慢」とかいうようなことも書かれていました。
別に、このようなことは医学関係だけではないですね。教育関係でも見られます。アメリカで見つけられた子供のこと、多動性注意欠損とか学習障害などでも教育関係者への広がりはイマイチですね。これは、子どもとの対応の仕方を工夫する必要があるのです。無理解のままですと、単に落ち着きのないことか勉強のできない子というような判断で潰されていくことになります。
まあ、無知による被害者が出ないようになることを国がもっと予算をつけて早急に対策をおこなってほしいですね。

2006年8月27日
母譲り?女子中高生の喫煙、吸わぬ親と1・8倍の差

yahooで見つけた読売新聞記事の見出しです。
両親が喫煙の習慣があると子も喫煙する比率が高いというものです。
女子の場合は父親より母親の影響を強く受けているということが厚生労働省の研究班(主任研究者・林謙治国立保健医療科学院次長)の調査でわかったというのです。
飲酒でもです。
これで言えることは「子供は大人を見て育つ」で、特に身近な人物の影響が強いと言うことですね。
行動パターンとしては女子の場合、母親の影響を強く受けるのが普通でしょうね。
高校野球で「喫煙」が絶えないのは、未だに喫煙している顧問、監督、コーチがいるからでしょうね。
学校も多くのところで「敷地内全面禁煙」になってきています。これで、学校内喫煙は以前より減少しています。理由は「教師が喫煙できない」ということでしょう。
いかように大人の影響というものは大きいのですね。
8月27日の日曜喫茶室で、子供がそこらにゴミを捨てるのは「大人が捨てている」ということが理由ではといってました。
大人の行動を子供は見ているのですね。特に学校等においてはこの点を自覚しておく必要があると思います。
無自覚な教師が結構います。困りものです。

2006年8月21日
算数数学教育の目的の一つ→「数の量的感覚」

8月20日日経「領空侵犯」で公認会計士の山田真哉氏が「投資教育より『数字』教育」で話されています。副題が「お金の実感 まず教えよう」です。
計算ができたりとかいうのはPCもあることですので、大抵ができますね。この頃、ネットで金融に関わる多くのことができますね。ネットだけで株取引、銀行の預金関係、投資信託、保険、ショッピング、その他ですね。
昔は、お札をもってしていたことが「数字」のみでできていますので、「実感がない」ということが起こってきているというのです。
そのために「数字教育」をというのです。
普通の勉強や実生活において「実感のある数字」を感じる力は大切だと思います。これは、金銭の関わること以外の部分でも大切では。
そのためには、「数の量的感覚」というか、数をどう考えているかということです。単に紙に書いた字のみの感覚ですと「量」と「数字」が結びつかないことになるのでは。
例えば、水1リットルとはどのくらいですか。血液中の赤血球の数は。東京大阪間の距離は。ピンとこないのはどのあたりからでしょう。
文化の度合いを見るのにどの程度の量を考えられるかというのがあるそうです。
それを低下させないためにも。算数数学教育について考えてみましょう。多重債務についても金銭感覚のなさというのも一員では。
バブル期の土地投機では所有することによる期待値や経費に関する「量的感覚」がなくなってしまったからでしょうね。
この「量的感覚」、科学技術の基礎であるとも思います。
昔の人が言っていた「読み書き算盤」の重要性ですね。「算盤」はしっかりと量の概念も養っていたのではという気がします。
計算機に頼らない算数教育を。小学校低学年で使っているはずの「数え棒」「おはじきみたいなもの」などをさらなる活用を。

2006年8月18日
全入時代のセンター試験

これは8月18日の日経社会面の連載「大学激動 『数と質』揺れる入試 4」の見出しです。
この記事の中で基礎判定としての資格型についての記述がありました。
センター試験の前は「共通一次」でしたね。これが導入されたとき、京都大学理学部みたいな「基礎資格型」で使ってほしいと思ったのですが、現実は得点合計を合否判定に使うというものでした。
その結果、統一テストによる「大学ランキング」ができあがることになったと考えています。合否判定に利用している試験によるランキングですよ。業者模試とは訳が違います。
それで、さらなる大学の序列化が進んだと思うのです。自ら、相対評価的利用を促進しておいてという感じですね。
とっとと、今行っているセンター試験も「資格型」とするべきです。3日かかってもいいではないですか。科目によっては2年次から受験させてもよいと思います。そして。必要科目を基準点以上あれば、基礎資格として「合格」として大学受験を認める方向にしてほしいですね。
科目は当然、最低で6教科7教科以上にね。とにかく、入試に必要な部分のみ勉強する風潮を潰してほしいのです。
まあ、潰れる大学が出るかもしれませんが「大学」に入学する学生の質確保のために。入学後についても「大学の教育力」と「学生の学力」の保証をどうするのか、真剣に考え続け、改善していくことが求められていると思います。
これと平行する形で小中高校の改革も必要になると思います。
生徒を順番でのみ「評価」する教師が結構います。また、試験のためにのみ勉強という教師もね。
「人間は学習することによってのみ人間になる」のですが、このためには幅広い学習が必要なのです。この点が理解できていない教師が多いですね。
この傾向を少しでも打破するために「センター試験の資格試験」化が必要だと思います。

2006年8月17日
強さとはなにか

8月17日の日経「私の履歴書」に「強さとは・・・」というのが出ていました。
今月は茶道の小堀宗慶氏が書かれています。小堀氏は徴兵で陸軍に入られ、軍隊の不条理も綴られていました。
例えば、風呂にはいって出ると軍靴の片方が盗まれてしまったというのです。上官に「盗まれた」と報告したところ、ビンタを食らい、「調達してこい」とかいわれたというのです。この「調達」とは「盗む」ということです。その他にも数例書かれてました。
この小堀氏は満州に行かれ、そこで敗戦を迎え、そして「シベリア抑留」ということになられました。その時の体験を語られている中でこの「強さとは、単に体力のことだけではない。子供の頃から身につけた知識や知恵が、シベリアの生活で私の武器になった。生きて日本に帰還する一助となった」ということを述べられています。
この知識とか知恵は日常の生活の中からも得られているのです。お父さんに連れられて自宅の新築工事現場などで得ているのですね。
人間は、「学習」することで人間になることができます。そのことを非常に効果的にされたという感じを受けました。
多くの人は、「学習」とは学校の勉強だけというような思いをもっているのでは。そこに大きな誤りがあると思います。
人間、どこでも学習することができるのです。また、その学習の成果は何時現れるか判らないですね。でも、確実に学習の恩恵を受けれるのです。
それが、「強さ」にもなるわけだと思います。
帝国陸軍は「兵士」より「馬」の方を大事にしていたという話を聞いたことがあります。
兵士は「1銭5厘の徴兵令状」で入ってくるが、馬は購入に何円もかかったからとかいうのです。育ての親の思いとか全く判っていないですね。そして、人間の命を消耗品と同様に扱ったのがあのときの軍隊なのです

2006年8月12日
運動指導士」取得容易に・厚労省

8月12日の日経に出ていたニュースの見出しです。「メタボリック症候群」(内臓脂肪症候群)の対策には運動が有効ですね。でも、効果的にできればさらにいいですね。
それで運動指導士」というのがあるというのです。この資格、歴史が結構あるようです。現行制度では「誰でも、期間3カ月(148.5時間)の講習会を受講すれば認定試験の受験資格を得られる。」ということです。
今回の新制度では、「体育系大学の学生の場合、心臓病など生活習慣病発症のメカニズムや健康管理の講義など財団の講習内容と同じ授業を大学で受けていれば、講習会なしで受験資格を与えられる。」ということにするというのです。
ところで、大学で全面禁煙をしたのはびわこ成蹊スポーツ大学が最初でしたか。すぐ和歌山大学だったかな。
このびわこ成蹊スポーツ大学の森学長が開学当初から「地域、社会にスポーツや健康を広める大学に、たばこはいらない」ということで禁煙です。ところが、当時、他の大学の体育学部では学生の禁煙についての通知がホームページに出ていました。手を焼いていたのでしょう。
学校関係でも、なぜか運動部の指導者に喫煙者が多いですね。そして、学校全面禁煙であわてた体育教師も結構いたようです。
もっとも、薬剤師などは厳しくなっていっているのですから、喫煙している医師や歯科医師、医療関係者でも結構まだいるような現状では教育の実質を吟味してから基準をゆるめてほしいですね。

2006年7月24日
教育と生活体験

このような表題にしましたが、勉強の目的とはいうこととも大いに関係ありと思います。
まず、「人間は学習することによってのみ人間になる」ということですね。この「学習」は学校以外での学習も当然含みます。
昔、インドでオオカミに育てられた少年が見つかったことがありましたね。その立ち振る舞い、オオカミそのものだったといいます。
また、チンパンジーなどは「学習」することによって「子育て」ができるようになるといいます。シャチの狩りも学習です。
これらより、高度に発達した文化を持つ人間は「学習」することで漸く人間になることができるtのですね。そして、社会的、文化的に充実した生活を送るためには、「学校での学習」が必要になります。
「読み、書き、算盤」ですね。この3つは小学生でも常に実生活と密接な関わりを持っているのが本来だと思います。生活科、社会科、理科などもです。
生活体験が豊富な子ほど、学習においても理解できやすいですね。それは、「学習が紙の上だけの物語」ではないからです。
学習に取り組むことのできる動機として「好奇心」も重要ですね。それと「将来への目標」をうまく組み合わせることによって教育効果を上げることができると考えます。しかし、「相対評価」のままでは最悪ですね。
学習の目的が「順番」のみになってしまい、子供の状況が反映されないからです。

2006年7月12日
教員給与見直し

「中央教育審議会は、教員給与についてのワーキンググループ(WG)して審議をおこない、来年初めにも答申をまとめる」という内容の共同通信の記事がYahooに7月10日に出てました。
教員給与なのですが、公務員の給与はどうあるべきかということにつながってくると思うのです。
まあ、はっきり言って「大手企業より低いが、小さなところより高い」のが現状だと思います。人事院は結構よく調べていると思うのです。ただ、仕事の内容との妥当性ですね。検証の楽な部門もあれば、難しい部門もありますね。
病院の勤務医の賃金というか待遇ですね、優良民間病院のほうが国公立よりよいのでは。それが、研修医の民間病院に流れる原因かもね。
大学教員でも、私学のほうが国立よりよいところが多くあります。実験設備の面でも私学のほうがよい場合もあるようです。俗にいう「文系」では研究条件も含めて私学のほうがよい場合が多いと朝日新聞社の大学クランキング(2003年版だったかな。)にありました。
このような状況で教員給与を下げるなどすれば、そうでなくても優秀な人材が集まりにくいのが、さらに集まりにくくなるのでは。
教員の質を高めるためには教員採用の仕組みや教育の内容というか目的を考えてみる必要がありますね。試験で順番を出すことだけが勉強の動機付けになると思いこんでいる教員もいます。
木更津市の数学算数検定で見えてきたこと。到達度と達成感を重視する教育というのを基本とできればいいですね。
単純に給与を下げるということは、景気がよくなってきていますの人材確保に問題が起こると思います。これによる被害はすぐには判りませんが甚大なことになると思います。
優秀な教員とはどのような教員でしょうか。考えてみましょう。

2006年7月11日
遅刻対策

Yahooのホームページで「琉球大工学部の教授(62)が講義に遅刻した学生から罰金100円を徴収している」という共同通信の記事を見つけました。
企業でも、いろいろ対策をされているように学校でも「遅刻指導」というのがおこなわれているところが多いですね。
講義に遅れると言うことは学生にとって不利益のはずですね。それで、遅刻が目に余るようなら教える側、教わる側、片方または両方それぞれに問題点があると思います。
勉強の意義が希薄になっていますからね。勉強に興味が持てなくなって、他のことを思いはじめると遅刻も増える傾向にあるのかな。
「服装の乱れは生活の乱れ」とかいいますが、勉強が面白くないからというのが大きなウェートを占めると思います。
遅刻は減少させることはできても、絶対になくならないと思います。学校での勉強がより魅力的になるようにして、気長に指導するしかないと思うのですがいかがですか。個人的性格の問題もありますし、一筋縄ではいかないですね。

2006年6月28日
教員免許の更新制度

今回はいつもよりまとまりのないものになってしまいました。済みません。
『中央教育審議会の教員養成部会が26日に、「現職教員も含めて導入することが必要」との答申案をまとめた。』というのですね。
他の免許制度も更新制を取り入れた方が良いものが多数ありますが、今回は教員免許についてですね。
免許が失効した者に対しては「回復講習」を受けることで回復できるという処置があるので、この点はよいかな。
問題は1945年8月までの教育ですね。生活面とか学力面とかじゃなく、無批判で政府など施策を児童生徒、学生に伝えていましたね。間違った愛国心ですね。だから、日本が潰れた。そのような教師を養成するような、または、その方向に向かわせる手段として使われないか心配です。
映画「チップス先生、さようなら」で将軍が「立派な学生(将校候補)を養成してくれてありがとう」とかいうような意味のことをチップス先生にいったとき、先生は「明日の来ないことを望む」とか独り言を言っています。このチップス先生みたいな教師を増やすとかするような更新制度であってほしいですね。
想定時代だ第一次世界大戦時で、制作年は1939年です。

2006年6月26日
学習の目的

またまた、この題です。6月26日付日経教育面の「まなび再考」にこのことについて書いてありました。
今は多くの大学で学生による授業評価がなされていますね。筆者の大学でも評価があるということです。
その自由記入欄に「授業計画通り進まないのが問題」という記述を発見して違和感を覚えられてそうです。
私の感じるところでは、このコメントを書いた学生は「受動的」学習態度のままなのでしょうね。
私は「大学は自己の好奇心に従って自ら調べ、考え、まとめて新しい価値観を創造する」方法を学ぶところだと思っています。
その基礎的学力については俗に言う「理系」のほうが手間暇がかかるようです。でも、基本は研究方法を学ぶことだと思うのです。勉強方法と言い換えてもいいです。これが身に付けば、教授の助けをそれほどなくてもあるいは一人で研究ができますね。どの程度のレベルの研究によるかで基礎学力のレベルに違いが出てくるとは思います。
「人間は学習する」ことによって人間になります。小学校、中学校、高校と学習してくる第一の目的は「より良い人間」になることですね。そして、大学教育はそれをさらに発展させるため、高校までより以上に「自発的」学習が求めれていると思います。
以上のようなことがあるので、民間企業の大学新卒の求人をみますと、技術系以外は「学部不問」というのが多いですね。
「教えて貰って記憶」するだけならコンピューターのほうがよほど正確ですし、量も多いですね。コンピューターにできなくて人間にできることは「創造」です。学習の目的は「創造性豊かなより良い人間となる」ことだと思います。

2006年6月24日
学校の禁煙

学校の禁煙化を提唱しているホームページに学校の禁煙というのがあります。一度は訪問してみてください。
現在の各地での禁煙化の状況も掲載されています。 ところで、学校禁煙の対象者は大人ですね。そして、大抵、教師ですね。
昨年、日本医学会は「喫煙は病気」として医師に対して喫煙者には「禁煙治療」を受けるように勧めるという勧告を出しています。
教師は医師ではないのですが、この日本医学会の勧告を受けて喫煙している教師は「禁煙治療」をうけるのが教養のある者の努めでは。
健康保険も使えるようになっており、ニコチン中毒対策の処方も保険対象ですね。
これだけよくニュースになっているのにもかかわらず、禁煙しないというのは教育上よろしくないと思うのですがいかがなものでしょうか。
「子供は大人のマネ」をします。特に「禁止」されていることについては、より「マネ」をしたいみたいですね。
特に「保健」という科目を教えていて「喫煙」している教師は何とかならないでしょうか。悪影響が大きすぎます。
くどいですが「喫煙は病気」であって、嗜好ではありません


2006年6月22日
東京都が最低限の学力明示へ

朝日新聞のホームページで見つけました。策定目標は来年度中ということだそうです。
例えばとして「かけ算の九九を暗記し、接続詞を使い分けられるようにする」のような例が挙がっていました。
6月21日(水)にNHKクローズアップで「教師が辞めていく」というのが放送されていましたが、アンケートで「生徒や保護者対応による精神的疲労」「自信や意欲の喪失」などが理由に挙げられていたというのです。仕事が多くて、多様化しているのが原因でしょうか。
そのような教育活動の中で評価基準の策定というのは大事なことであり、労力の必要なことだと思います。これは教師が個人でできるものではないと思います。また、個人、個人でバラバラにつくると食い違いが大きくなりますね。
そこで、「最低限の学力」とはどのようなことが必要なのかと明示することが多くの人に共通の基盤をつくることになるのではと思うのです。でも、基準となる学力を日常生活や今後の学習活動の基礎部分だけにしてくれるのでしょうか。
「人間は学習することによって人間になる。」ことができるのです。但し、「暗記」ばかりでは「より良い人間」にはなれないですね。
その点、「かけ算の九九を暗記し、接続詞を使い分けられるようにする」は日常生活で大変役に立ちますね。このような感じのことで最低限の学力を明示し、確認テスト例も作られると教育に対する考え方も少しは変わるかもしれません。絶対評価主体のほうにですね。それと「子供の成長に個人差がつきものである。」ということをよい解釈のほうで理解してもらえるようになるきっかけになってほしいです。
明日は休ませてもらうことになると思います。よろしくお願いします。

2006年5月22日
「素直は善か」誤りに気づかぬ怖さ

これは5月22日付日経教育面の「まなび再考」の見出しでした。
中身は、大学でのゼミで学生が、誰かの論文を精読し考察して発表するのですが、論文を「聖書」のように受け入れてしまっているようだというのです。
「事実誤認、論理の飛躍、根拠薄弱など論者が犯したかもしれない過ちが一顧だにされないまま、結論だけがうぶで吸収力に富む真綿のような頭脳に染みこんでしまう」とありました。
「論者と異なる結論を引き出すための、論理回路と構えが排除されてしまっている」というのですね。これは怖いことだとこのコラムの著者はいわれています。
「聖書のように読む素直さは『長いものに巻かれる』ことにつながる。知的無垢さは、権力や権威が提示するゆがんだ世界観をも抵抗なく受容して、容易に時代の加害者に化けてしまう」ともありました。
先の大戦までの日本の状況がまさにそうだったですね。批判的精神を滋養していないと国を潰すことにもつながりという見本です。
現在の状況も当時に近づきつつあるような気がします。最近の憲法論議や教育基本法、共謀罪などがそれに当たるかも。
国を潰さないためにも「批判的精神」や「他者と異なる結論」を導き出せる素養をつける必要があると思います。

2006年5月17日
教育基本法改定案審議入り

教育基本法の改定案の審議が衆議院で始まりました。
焦点の一つが「愛国心」に関わる文言ですね。
ところで、先の大戦で一番「愛国心」を叫んでいたのは国内のどのような勢力だったのでしょうか。その勢力によって戦争に負け、大日本帝国憲法を改定せざるおえない状態になったと思います。戦争をしていなければ、以前から度々書いていますように日本は「大日本帝国憲法」のままで現在に至っていると思います。
ですから、「愛国心」を盛り込むのであれば、当時をどのように考え、そこからどのような教訓を導くことができ、二度と国を潰さないようにするにはどのようにすればよいのかということについて議論を深める必要があると思うのですが、ついどそのような議論が国会でなされる様子はないですね。
今でも、アジアでの日本の存在感は低下しているというのです。今後の歴史的背景への取り組み次第ではさらに低下し、再び潰れる恐れがないとはいえないですね。
食糧自給率40%以下、エネルギーに至ってはほぼ100%輸入ですね。先の大戦のときはどちらももっと自給率は高かったはずです。
国際社会との関わりのなかでしか日本の存在を維持できない状況ですが、今の内向きの思考では存在が危うくなるような気がします。
今一度、よく考えてほしいですね。

2006年5月15日
もう一つの教育格差

5月15日日経教育面「まなび再考」の見出しです。
教育格差をいわれるとき、経済的格差のほうを指していることが多いですね。
「子供は親を見て育つ」とも言われていますね。まあ、「大人を見て育つ」ですね。どうしてか。人間になるためには「学習」が必要なのですね。そうするとき、「手近な大人」が見本になると思うのです。
今の学校教育は「文化的環境」がよい方が有利ですね。「よい文化的環境」とはどのようなものであるのか。
例えば、「絵本」などを乳幼児期にどれだけ感情を込めて読んでもらえたのか。これは、大きいのでは。子供が本が欲しいときに身近にあるのとないものの違い。
親が、仕事か趣味かは問いませんが、しっかりした本を多く持ち、よく読んでいるかどうかなどですね。
博物館等に連れて行ったか。テレビの番組にどのようなものが多いのか。
比較的高学歴の親のほうがよい環境を子供に与えることができる場合が多いですね。
経済的側面の影響がどうしても絡むとは思うのですが、「文化的環境」というのが子供の学力格差になって出てきていることも否定できないと思います。
自ら調べたりして解ったりできるようになることの喜びを体験させることも大事だと思います。この点も親のつくる文化的環境から出てくると思います。

2006年5月5日
独仏で共通の歴史教科書

5月5日の朝のNHKでフランスとドイツが1945年以降の部分についての歴史教科書をつくったと紹介されていました。
ドイツとフランスは独仏戦争や第一次世界大戦、第二次世界大戦など戦火を交えています。その両国が今の友好関係をさらに発展させるためには歴史認識の共有が必要との観点からつくられたそうです。
これができるのも、第二次世界大戦でのナチスの行為およびナチス政権成立についてドイツが検証や反省、そして二度と同じようなことを繰り返さないための努力をフランスが認めたからでしょうね。
フランスも第二次世界大戦後は第一次世界大戦の戦後処理の愚を繰り返さない努力をしてますね。このような両国であったから「歴史の共有」が可能になったのでしょう。
もっとも、所々では解釈の異なる部分があるというのです。その場合は両方の解釈を併記する形にして生徒に考えさせることにするそうです。
この歴史教科書は日本でいう高校3年生用だそうです。日本みたいな受験勉強のない両国だからできる面もあるのかな。今後、1945年以前についても作業をしていくそうです。
ドイツはナチスの行為を否定していませんから、共用の歴史教科書ができるのにそう時間はかからないのではと思います。

2006年4月24日
勉強の意味

最近購入した映画を見ていて思ったことです。
タイトルの日本名は「ロレンツォのオイル 命の詩」です。息子が当時不治の病に冒されたのです。両親は始め、医師の言うようにしていたのですが疑問を持ち、自ら文献を調べます。医師たちとも渡り合い、治療方法(食事療法の一種)を見つけていったという内容です。
父親は銀行員です。それは、生化学関係の専門論文を片っ端から読んでいくわけですね。
今の日本みたいに「受験」と関係ないからというような勉強の仕方をしていたらできないことかなと思いました。だから、当時、ほとんどの同じ病気の親は医師や国の言いなりでした。
私も肺ガン(喫煙歴なしで)の手術後、転移の疑いをかけられました。整形外科の主治医は別の原因を考えておられたようですが、なにぶん若い先生ですので病院内の力関係でしょうか、「転移」と決めつけられたわけです。
でも、骨シンチレーションの本や癌の転移に関する本などを読んでましたので、無駄な害のある放射線治療は受けていません。手術後6年以上になりますが、再発も転移も全くありません。だから、あの「転移」は明らかに誤診だったわけです。
医学の方で書きましたが、法律の方でも、社会生活でも幅広くある程度深い教養というのは人生を豊かにするために必要だと思います。
火種が大きくなる前に「消費生活センター」にお願いして大企業に黙っていただいたこともあります。

2006年4月18日
算数数学検定

4月17日日経教育面に木更津市教育長初谷氏の寄稿がのっていました。
そこにあったのが木更津市独自の「算数数学検定」の話です。
算数数学教育においては「積み重ね」というのが重要ですね。そして、一度躓くとよき指導者と復習の時間に恵まれないと復活が他の教科より難しいですね。どうしてでしょうか、それは躓いている箇所の指摘が的確にできるかどうかいうのが大きいと思います。だから、自力で躓き脱出というはさらに難しいことになります。
いろいろ試行錯誤されたのでしょう。それで、「算数数学検定」に行き着いたのかな。
浮き彫りにされたのは中学1年での躓きの多さだというのです。検定においてもその段階の通過率が他より低いというのです。
この検定は中学3年まで受けることができ、受験するかどうかは生徒自身が決め、受験の級も受験者自身が決定するシステムだそうです。
それで、見られたのは想定より受験者が多く熱心であというのです。結局は各自の算数数学力が客観的に計られ、「認定書」という形ですが認められるというところにあるのでは。相対評価でないところに大きな意味があると思います。
多くの学校で「・・・検定」に結構受験者が集まるのもこのような点かな。
相対評価は、多くの生徒の意欲をなくさせていると思いませんか。
木更津市の試みがさらによくよくなることを期待しています。

2006年4月13日
教育基本法改定案

教育基本法の改定案が出ましたね。「愛国心」という直接的表現はありませんが、いまの政権が出せるようなことをしてきたのかというと疑問が残ります。
なぜかというと、今までにも書いてきたことですが、昭和初期から20年にかけて日本が国内や国外でしてきたことに対する検証が全くと言っていいほどなされていないことです。
近場の国で「愛国心」を盛んにいっている国があるようですね。その国は破綻状態ですね。ニュースでその国のテレビ放送の一部が放送されることがありますが、どこかの国の「大本営発表」の口調に非常によく似ている気がしてならないのです。
日本も昭和初期において「愛国心」が声高に叫ばれて、多くの国民が、近隣諸国の人々が犠牲になって、日本は破綻しましたね。そして、天皇制の存続も危うかったと聞きます。
多くの国民は「国のため」と信じて戦いに向かい、死んでいったのです。「愛国心」を振りまして日本を破滅への道に導いた指導者はどうだったのでしょうか。
当時、戦争反対とかは「非国民」のレッテルの下、弾圧されていますね。でも、戦争していなかったら日本は大日本帝国憲法のまま現代までこれたと思うのです。犠牲も少なくなっていたでしょう。どちらの方が真の愛国心を持っていたのでしょうか。日本が破綻に向かっていってるかどうか、普通の国民は情報統制で分からなかったですね。情報を知りうる立場で、政策遂行できる立場にいた人々に愛国心があったのかが疑問です。
当時の軍部が使った「統帥権」は憲法の拡大解釈というかこじつけですね。日本では、法の拡大解釈が結構あります。非常に心配です。

2006年4月8日
嫉妬から称賛の経済へ

4月7日の日経一面の「日本を磨く」の見出しです。そして日本経団連の奥田碩氏が次のようなことを言われていました。
「成功者に嫉妬し、引きずり下ろす力が日本社会の強いことだ。それでは経済が沈滞する。成功者を尊敬し、それを目標に自分も頑張ろうという『称賛の経済学』に転換すれば、今以上に社会が活気づくだろう」とです。
さらに「大事なのは一度失敗しても再挑戦できる仕組みを持つことだ」とも言われています。
「成功者に嫉妬」はいろいろなところで見られますね。教育現場で「飛び級」が定着しないのもこの感覚なのでしょう。
大規模農家の増加を阻んだのもこの感覚でしょう。「皆同じ」という感覚ですね。抜け出す者の足を引っ張るということです。
そして、敗者復活の考え方も教育の現場では低いのでは。学力格差などを固定的に見る教師が結構いますね。
社会の方も「評価」が適切にできないことから「敗者復活」が難しいのでしょう。

2006年4月5日
教科書の検定について

しつこく検定をしていますね。まあ、面白くない教科書を作り上げていると感じです。
内容のレベルについてですが、易しくなりすぎたのは学習指導要領にどの項目をどこで教えるのかを規定していることが大きな原因かな。
それと、親や教師などの考え方、それに毒された生徒の意識もあるかな。大きくいえば、日本人の特性「皆と同じ」ということへのこだわりもね。だから、飛び級を非難したり、落第をおそれるのでしょうね。でも、大学入試で「一浪」を「ひとなみ」とも読む部分もあったのですが。やはり、「皆と同じ」にこだわりすぎがあったのでは。それが文部科学省の担当官まで動かして、皆がいつも同学年で理解できる程度の内容の学習指導要領になったのかも。
それを推し進めるには検定で教科書を縛るほかないでしょうね。縛りすぎている現状では「国定」と同じでは。あるいは「検閲」ですね。
もっと自由にさせてもよいと思います。現場では副読本主体の授業をしているところも多いようです。イギリスのある教科の教科書をもっているのですが、分厚いですね。内容も充実しています。但し、大学進学希望者向けです。
いろいろな程度の教科書が あってもよいと思いますし、今の検定はなくてもよいのではと思います。
昨日の記述の委員会、食品安全委員会プリオン調査会でした。訂正させていただきます。

2006年4月3日
総合的学習の意味

4月3日の日経オピニオン面の「領空侵犯」につぎのような意味を弁護士の堀田氏が書かれていました。
「子供自身に興味あることを調べさせ、その過程で考えることは楽しいと判らせるのが総合的学習。生きる力、学ぶ力を回復させるのにもっとも効果的な学習です。」とありました。
確かにそうだと思います。物事を自身お力で調べるとなると当然基礎力が必要ですね。そのことで学習の大切さと言うことも学ぶと思うのです。ただ、表面的指導の場合、「調べる力」の大切はなかなか子供は判ってくれないと思います。そこに教師の苦労の一つがあるのでは。
児童生徒は「覚える」ということの方が楽だと思いこんでいる場合が多いです。知育教育で「覚える」ことの方がです。でも、考える力が伴わないから「応用力」ができにくい。忘れやすいという弊害に気づいていないのでは。
自ら苦労して調べて考えて答えにたどり着いたことは忘れにくいですね。
人間は学習をして人間になっていきます。そのとき、調べる力、考える力などが大事になります。世の中の事象には正解が用意されていないものがほとんどかもしれません。答えを自分で見つける必要があるわけですね。そのため、総合的学習を本来の意味で活用できる状況にする必要があるのではと思います。
「記憶」はPCなどの記憶装置の方が人間より正確に大量に記憶できます。人間の人間として価値は、好奇心を持ち、調べることができてその資料を基に考えて新しい価値を作り出すことにあるのではと思います。
人間のもっとも人間らしさは「好奇心」をもっていることではと思います。

2006年3月31日
トイレ磨きは心磨き

この題は、3月31日付日経文化面の寄稿に付いていました。以前にも「掃除」のことで記事で読んだことのある鍵山秀三郎氏が書かれています。
皆が「汚い」と思いこんでいるトイレを綺麗に掃除することを実践されています。掃除を通して人間の心を豊かにすることが出来野ですね。
この記事の中で「美しいトイレの心地よさをすると、オフィスも汚い状態にしておくわけにはいかなくなる。」とありました。そうだと、思います。
美しいトイレは心が和みますね。学校のトイレは汚くなりやすいですね。その原因はいろいろあると思うのですが、大きい理由が清掃指導する教師の問題だと思います。トイレのどこをまず綺麗にする必要があるか判っていない人が多いようです。
この記事で鍵山氏が男子用便器を素手で掃除をしているところの写真が出ていました。普通の人は「巣手」というのは抵抗感が強いと思います。でも、便器の汚れを落とし光らせるというのがトイレ掃除の基本ですね。それを巣手でされているのは凄いことだと思います。
国内に始まって「・・・清掃に学ぶ会」の活動をされておます。yahooなどで「清掃に学ぶ会」を検索のところに書き込んで検索するといろいろな地域の活動のホームページが出てきますので一度見てみてください。
トイレを綺麗にしましょう。

2006年3月30日
研究者もデータの捏造?

東京大学のある研究者の論文に疑問が投げかけられています。実験の再現ができないとか、発表された方法では遺伝子が合成できないとか。使ったされるソフトを論文発表時にはもっていなかったのではとか。いろいろ出てきています。
韓国の某教授のは国を挙げての検証で「捏造」となったようですね。
その昔、ドイツのある研究所の研究員もやったみたいですね。そのときは、監視下での再実験で検証させられていたはずです。
実際に「捏造」か「実験上の誤り」というか偶然が重なったのかは難しいですね。ただ、都合のよいデータのみに注目していたりすると、辻褄合わせのことをしたくなるかもしれませんね。
大学などでの研究ですが、競争が厳しくなってきており、より早く成果を求められていることも背景にあるかもしれませんね。研究とかは本来「期限」つきでするものではないと思います。何年も論文がなかったり、レベルの低いのは問題だと思いますが、成果の収穫期に達するまでの期間はいろいろあると思います。
研究成果の評価は難しいと思います。それでも、ほとんどの研究者がなんとか我慢できる評価方法とか評価基準があればいいかもしれません絵。
工業製品などに利用できる成果は「報酬」という形で研究開発者に還元できるのでわかりやすいですが、その基礎開発とかなるをわかりにくくなり、評価することが難しいですね。
時間のかかる息の長い研究もできるより良い評価方法ができれば、捏造疑惑みたいなのは少なくなると思います。不届き者はいつの世にもいるかもしれませんね。でも、疑惑はほとんどなくなるかもしれません。

2006年3月27日
日本の教育の質保証

27日の日経教育面に大学の学位水準についての寄稿がありました。
どこの国でも教育機関(学校)によってばらつきがあると思います。それでどのようにして「質」を保証するかということですね。
ヨーロッパでは、45カ国が参加して基準作りが進められています。詳しくは日経で。
アメリカでは、大学から大学院に進学するとき、基本的には他大学に進学するようですね。いろいろな出身の大学院生がいるので、どの大学も教育で手抜きをすれば、進学後評判を落としますね。
日本は、いかがでしょうか。大学院重点化大学への他大学からの進学者がある程度出てくるようになりましたが、アメリカほどではないですね。自大学大学院進学が未だに多いですね。
日本と欧米との違いはどっぷり相対評価に使っている日本と絶対評価的な欧米との違いがかな。
「質保証」は絶対評価によることのようです。「何ができるようになったか。」とかは絶対評価でないと評価できませんね。絶対評価は基準作りが大変です。それに比べて相対評価は楽ですね。
絶対評価は評価方法にも労力が必要ですが、相対評価は楽ですね。順番さえ出ればよいのですから。東条英機、陸軍大学一番で卒業だそうです。
あの戦争の時、イギリス軍では「日本軍で一番愚かなのは参謀肩章をつけている連中」という定説になっていたそうです。つまり、陸軍大学出身者です。でも、記憶による相対評価では優秀でした。
まあ、「質保証」のためには大学だけではなく、教育全体の評価方法を表面的だけではなく実質においても適切な基準による絶対評価にできるように改革すべきです。

2006年3月25日
プロ野球、パリーグ開幕

25日本日開幕しましたね。
今年は野村監督の「野球は頭でするものだ」というのを楽天の選手がどれだけ吸収できるかというところに大いに興味がそそられますね。
ヤクルトでは、うまくいきましたね。古田監督はその優等生ですね。完全に独り立ちできましたからね。
阪神では苦労してたようですね。どうしてでしょうか。一流選手の多くはいわれなくても「野球は頭でするものだ」を実践しているようです。中にはそうでない選手もいるようですが。
これは、少年時代などでの指導のされ方が悪かったのではと思います。
フィギャアスケートでは協会が世界を睨んで指導していたようですね。スケートリンクの閉鎖という強敵が現れて苦労しているようです。
サッカーはJリーグができてから選手養成が学校以外でも盛んになりましたね。
学校スポーツが一番選手に考えさせないのでは。指導者のロボットを養成している面が強い感じがします。これが、単なる私の思いこみであってほしいです。
学校スポーツのよくない点は目先の勝利にこだわりすぎるところかな。その典型が甲子園のような気がします。

2006年3月14日
国立大学医学部入学者の出身高校

13日付日経教育面の「まなび再考」で取り上げられていました。
旧帝国大学の医学部を中心に私立中高一貫校の卒業生が多いというのです。
ここで見られるのは「親」の考え方、収入などを含む社会的地位、学歴などが大いに関係してきているということかな。
ゆとり教育とかいわれ始めてから、この傾向が酷くなったのかも。「ゆとり」の意味の取り違えを文部科学省のお役人がしましたからね。
大学等での「ゆとり」とは、基礎学力が十分付いているということでしょうね。それぞれの進路によって「ゆとり」の意味が違ってくるのに小中高校での時間的ゆとりだけを生み出すように教科内容を削減してしまったですね。
その結果、文部科学省の要請化にある公立学校の教育力が落ちてきて、「センター試験」を解く「ゆとり」も奪ってしまったようです。
それで、幅広い学習と程度の高い学習ができる私立中高一貫校の優位がより顕著になってきたのだと思います。
その結果、起こるのは「格差の再生産」になってきていると思います。
私立中高一貫校を目の敵にするのではなく、公立校のあり方や公立高校の入試形体の再検討などが必要では。内申書重視は止めましょう。これが公立中学校をおかしくして原因お一つでしょう。

2006年3月2日
大学の教育について思うこと

2月27日の日経教育面を読んで思うことがありました。それで、遅くなりましたが、教育の目的なについて書いてみました。
国や地方公共団体、親に課せられた義務教育は文化的で普通の生活をするのに支障のない教養をこどもにつけさせることでしょうね。
高等学校や大学などは、義務教育の成果の上に立って、生徒や学生の才能を伸ばし、「有用な人材」を養成することかな。
今の大学は教育改革とはいろいろ取り組んでいますね。効果が十分上がっていない面もあります。
大学も大学ですという面がありますが、義務教育等で基礎学力が養成されていない状況が現実に起こっているのでは。それもあって大学教育がうまくいかなくなった面があるので鳩も思います。
欧米では、大学入学者の学力レベルを維持するのはどうしているのでしょうか。イギリスでの高校の大学進学者向けのある科目の教科書をもらったのでが分厚いですね。日本で難しいといわれたカリキュラムのときの教科書より難しいし、量も多いです。
日本は、高校生全員に対する教える量を減らしてしまったことに問題があるようですね。その結果、ギャップが大きくなりすぎた。
実際、「ゆとり」の意味の取り間違いと「勉強」の意味の希薄化が学力低下に繋がり、大学もまともな入試改革ではなく、採点負担の軽い方に移行したことも勉強の質の低下を招いたようですね。
「記憶」のみが勉強と思うような学生が増えたにもかかわらず、対応をしていないところが目立つことが「大学の教育力」の低下としてでてきて、「有用な人材」の育成も滞るようになったのかと思います。

2006年2月19日
大学生のまじめ化

19日の日経一面で始まった連載「大学激動 第E部 全入時代の学生像@」の見出しの一つです。
授業によく出るようになったのはyoikoとかもしれません。ただ、読んでいくうち「不安」に駆られますね。真の意味での「自発的」というのがどの程度残っているのかと言うことです。
群馬大学医学部の話「大学に入っても、器用に高得点を取る能力は優れているが、何かを深く知ろうとする意欲に乏しい」と知的好奇心の欠如を嘆かれています。
大学とは、授業に出たかどうかより、その講義の内容をより理解し、そしてテストでの高得点やレポートの評価が高ければよいと思うのです。自学自習ができる方が講義にでて、その範囲内のことしか勉強しないよりは。まあ、サボるだけはだめですよ。
普通の企業で「出社」しているだけで「給料」を払ってくれるところがどのくらいあるのでしょうか。「試験だけでなく、出席した熱心さを買ってほしい」というのは、全くもって高校生活の延長ですね。
金沢のある工業大学で、就職を早期に決める学生には「夢工房」でなにかを制作したときのリーダーが多いというのです。これは、「全くの自発的なものつくり」だそうです。
この例などは、自発的、好奇心旺盛などが大学生活で大事であって、さらに「まじめ」の方がよいとは思うのです。でも、講義の範囲内のことを出席して勉強しているようではだめなようですね。
高校の基礎学力が不十分なものへの対策が大変なようですね。国立大学でも大変なようで。
ある私立高校の生徒が親に国立大学への出願を依頼したところ「後期日程」の出願を忘れられたというのです。その高校の先生は生徒に「親に依頼した時点で間違い」だとかいわれたというのです。
私らの頃は、願書請求から出願、宿の手配、交通機関の手配など全て自分でしました。そのようなことが普通でした。
世間知らずで好奇心もない学生が多くなってきているような気がします。

2006年2月11日
トリノオリンピック開幕

冬季オリンピックが昨日開幕しましたね。
開会式、夜だから私はよく寝ていました。
ところで、メダルいくつ獲得できるのでしょうか。欧米は国が関わっていますね。「スポーツは科学」であるというのを実践しています。
日本は相変わらずの基本的には個人負担での練習、強化選手になっても国などの渋いので頑張っていますね。昔よりよくはなっていますがね。
前回の時、ソリの開発から選手個人負担を強いられていた競技がありましたが、今回はどうなのでしょうか。
学校スポーツなどで見られる「根性主義」ね。一流選手は指導者が押しつけなくても根性持ってますよ。
学校とは違うところでいろいろな競技の選手養成ができるようになってから、日本も強くなってきてますね。根性根性といわなくても向上心を巣立てれば、そして、目標を達成したときの快感等を味合わせるなどで自発的に向上している選手が増加しているように思います。
選手養成について、いろいろな国の方法を参考にしながらより良くなってほしいですね。

2006年2月7日
国立大学の格差

昨日(6日〜の日経教育面「学び再考」で扱われたテーマです。
国立大学ですが、戦後の新制大学に移行するとき、「旧帝国大学系」「旧商大系」「旧文理大系」「旧医科大」「旧制高校、専門学校、師範学校のみ」などで全国に作られました。
その格差が解消されずに独立行政法人化されたのです。そして、大学格差だけではなく「学部間格差」も存在したままだと思います。一番冷や飯を食わされているのが「教員養成系学部」かな。
現在、京都大学教授の方が自身のHPで書かれていたことですが、ある教育大学の研究状況を「劣悪」と記されてました。
数年前の東洋経済という経済関係雑誌の大学予算の特集があったので、専任教員一人当たりの消費支出を出すと上記格差が反映されていました。この計算で一番一人当たりが多かったのは慶応大学でしたか。
国立大学から慶応大学に移る有名教授が結構おられる理由かなとも思った次第です。まあ、学生一人当たりでは、旧帝国大学が多いですね。
多くの有力私学の方が多かったですね。私学は国立に比べて多数の学生の面倒を見る必要があります。朝日新聞の「大学ランキング」の2003年号でしたか、そこに教授の給料の項目があって、研究条件では私学の方がよい場合がある。特に俗に言う文系ではということが書かれていました。
専任教官一人当たりの学生数では私学の方が多いですね。でも、国立にはないのですが公立大学の中には私学並みみたいなところもあります。
進学先の大学は、国立、公立、私立にとらわれることなく、卒業後の進路も含めて、教員の質、学部学科の内容などをよく考えて決める必要があると思います。
文部科学省のホームページに「国立の教員養成大学・学部(教員養成課程)の平成17年3月卒業者の就職状況」があります。詳しい資料へのリンクもありますのでそちらも見てみてください。

2006年2月5日
無形の力「観察力」「分析力」「判断力」

昨日(4日)の日経スポーツ面の「プロ野球2006新監督始動」にあった見出しの一つです。
取り上げられていたのは、楽天の野村監督です。ID野球でヤクルトで3回日本一に輝いています。
野村監督は以前「野球は頭でするのもだ」という書名で本を出しています。また、昨年、「野村ノート」というのも出版しています。
どちらもこの記事の中にある「観察力」「分析力」「判断力」などの大切さを取り上げられています。
個々の考える力もね。ただ、考えるためにはその材料が必要ですね。それが「観察力」でしょうね。観察力があって十分に観察してこそ分析でき、判断もできるのではと思います。
このようなことは野球以外でも必要ですね。生活全てで必要です。何をどう観察すればよいのかを身につける必要があるのです。それが、日常の勉強です。この勉強には、「学校での勉強」のほか日常生活全ても入るのでは。
「学校の勉強」には全ての教科、科目がね。
物事が観察力がつき、分析でき、判断できて分かるようになると勉強自体がおもしろくなり、且つ、日常生活や仕事でも大いに役に立つのでは。
「勉強は受験のため」という思いがあると以上の効果は期待できないでしょう。そして、勉強が面白くないでしょうね。役に立たない。
阪神ではこの意味がなかなか伝わらなかったのでしょうね。ヤクルトでは割と早く選手が感じ取ったわけですね。阪神は時間がかかった。
学校の教育、「観察力」「分析力」「判断力」育ていないところが多いのでは。

2006年2月2日
日本の学校スポーツで不思議に思うこと(再掲です。2005年8月14日)

大分前(20年ほどかかん)の話ですが、「ウサギ跳び」、筋肉を鍛えるというより痛めるということが言われ出してから実際になくなるまで相当時間がかかったようですね。
運動中の水分補給もはっきり言って間違った指導が延々とされていてスポーツドリンクが出だしてからかな。漸く水分補給の重要性が認識されだしたように思います。
製鉄所など暑い環境での労働者は昔から水分と塩分を補給してましたが、体育学部などをでている教師がという感じがしていました。
淡路島でしたか、柔道の合宿中に中学生が心不全でなくなりましたね。神戸新聞でしたかHPにあったのですが、顧問が「気合いが入っていない」とかいって体罰らしきものをしたようですね。顧問たるもの、生徒の体調に注意する義務があったのにそれを放棄して間違った指導をしていたことになるのでは。
この「気合い」ですね。アテネオリンピックで派手に使った人がいますが、皆同じようには表面に出ませんよ。それを見分けるのも指導者の役目では。それができないのならPCでデータを入れて答えを出させた方が正確だったりするかもね。
負けたときの「悔しさ」などの表現の仕方も十人十色です。中には「笑い顔」みたいな人もいるかも、それを見分けるのが指導者でしょうが。勝ったときの「喜び」もね。
それと明徳義塾のタバコ、日本ハムの某選手の時にも書きましたが、小中高校での顧問などに喫煙者はいなかったのでしょうか。一般的な感じでは、顧問や監督のなかにどの程度かは判りませんが、喫煙者がおったのでは思ったりします。
体育関係の喫煙率、結構高いですからね。生徒が真似をしても不思議ではないですね。

2006年1月20日
学力の評価とは

どのような学力があればいいのでしょうか。
覚えること→コンピューターの方が正確に大量に記憶できますね。
覚えた量の多少で評価するのはいかがなものでしょうか。
思考力などですが、「記憶」なしでは発揮できないですね。
丸暗記は忘れやすく、理解したことは忘れにくいようですね。
論理的に誰かにわかりやすく説明できるかどうかということはその分野をよく理解しているということが必要ですし、記憶もされていると思うのですがいかがなものでしょうか。
このようなことを評価しようとすると評価される者より評価者の能力が低いとできないと思うのです。
結局、教員の質に行き当たることになるのでは。それと、勤務体系ですね。忙しすぎると評価にまで手が回りません。テスト問題作成に時間が割けなくなり、業者テストの利用ということになるようです。
その方がよい問題が出題されることになりますが、授業者の力点を置いたところと問題の力点を置いているところにずれが生じるおそれがあるのでは。
どうも、日本は「記憶力」をほかの要素より重く見られてきたようです。はっきり言って、このほうが問題作成または採点は楽ですね。大学入試センター試験は作成に多大な労力がつぎ込まれているようですので、私にはセンター試験みたいなのは作れません。
旧帝国大学系の入試問題も作成、採点とも手間をかけているのでよい問題が多いです。
普通の小中高校ではこの問題の作成、採点のことが本質的なところでなおざりにされてきたような気がします。
なにをどのようにどう評価するのかの基準などが不明確のまま放置されてきたのが日本の現状でしょうね。
だから、相対評価がまかり通るのでしょう。文部科学省が学校で絶対評価でいっているのに未だに相対評価のところがあります。評価が楽ですからね。
子供のために評価を絶対評価に変えましょう。

2006年1月18日
想像力というか連想力

一部の日本人でも大きく欠けているような気がします。例えば、昨年5月中旬にJR西日本の社長が『「日勤教育」と呼ばれる乗務員教育や過密ダイヤ、安全投資の在り方などについて』とは「直接は事故と関係ない」と述べたようですね。
安全意識と現実の設備等からの想像力と適切に判断する能力があれば、あのようなダイヤは組まないと思いますし、あるいは新型ATSを設置していると思います。現実認識力の欠如ですね。それがない上に「適切な想像力」もない。スピードアップのみが至上命令みたいになっていったのだと思います。体質そのものです。
このような体質は、日本があの戦争にズルズルはまりこんで行ったときと同じであると思います。
だから、拉致被害者の家族の痛みもわからないのが出てくるわけですね。また、先の大戦で被害を受けた諸国民の痛みも理解できないことになると思います。
その結果、例えば、もし「ドイツの首相がヒトラーの墓参りをする。」としたらユダヤ人が感じるようなことと同様のことを周りの国々の人々に与える行動を平気でできるわけですね。
身内の考え方、「井の中の蛙」の典型みたいなことをして傷口を拡大してしまっておいて、尚かつ自らのためにもなる検証ができないのですね。自己検証をもしたがらないですね。
諫早湾の干拓事業でも今までの農政のことや世界情勢などを考えると中止すべきだと思うのですが「惰性」そのものですね。それを裁判所は「強気を助け弱気を挫く」本領を発揮したような判断を昨年5月に示しました。
想像力とかいうのは、単に突飛なことを思いつく力だけではなく、日常においていろいろな場面で必要になります。知能行動とはある意味「想像」の産物です。過去の経験などから多面的に判断して未知の事象に対処することでしょ。想像力がなければ知能もないということかな。

2006年1月14日
学校のトイレ

綺麗なところから汚い使用に耐えないところまでいろいろなところがありますね。
この格差は清掃と使用の仕方によるのでね。別に古くても綺麗なところもあります。その逆も。
一般家庭でもトイレを見ればその家庭のしつけというか落ち着き具合というか状況がある程度分かります。
ですから、家庭での躾のよい子は大抵は綺麗に使いますね。
ところが、清掃になると今は多くの家庭で子にはさせていないのでは。家庭のトイレは学校のみたいに水撒いてというわけにいかないですので、いろいろ専用のトイレ用の清掃器具、薬品を使うことになります。
学校など全面タイル張りのところは水を多く使った清掃もできますね。基本的には床もデッキブラシなどでこすると言うことが必要なのですが、どこかで清掃の仕方の教育を受けていないと生徒にまともに指導できない教師が出てきます。
汚くなりますね。→生徒が荒れることが多い。なぜでしょうね。
まあ、私は汚いトイレは我慢できないタチなので外出したときはよく「百貨店」でさせてもらいました。(大)
最近はウオッシュレットのあるところで(大)をするようにしていますので、(小)は駅のトイレでもします。昔より綺麗かな。
教師が生徒にトイレ掃除をどのようにさせるかで、その教師の何が重要で何がそうでないのかを判断する能力を少し判定できるような気がします。

2006年1月13日
情報とは、情報処理能力とは。

情報とは何なのでしょう。そして、情報を収集して何が必要とするものかをどのように判断しているのでしょうか。
養老孟司氏の「バカの壁」などによると、情報とはある出来事を記述したもので変化はしないものであるとありました。今日の新聞は、明日読んでも同じですね。記事の内容が正確などうかは別にして、変化はないですね。
読み手の方は一日生き延びて、いろいろ経験しますので少しずつ変わってきます。すると、昨日の新聞から新しい発見をすることもあるわけですが、新聞が変化したのではなく、読み手の判断基準が変わったからだと思います。
情報を有効化するのは、受け手の価値基準による解釈を通してからですね。この作業をしない場合、真に情報が活用されたとは言えないのでは。
情報教育の根幹は、この「価値基準」を育てることにあると思います。ですから、生活のすべて、学校教育のすべてが情報教育であると考えられます。
帝国陸軍の陸軍大学は、この手の情報教育が全く機能していなくて、「暗記」だけだったようですね。都合の悪い情報はなかったことにして、結局墓穴を掘ってしまったわけです。
今の日本でも「情報教育」は授業での「情報」の時間だけでするものだという意識が各所で垣間見られます。
インターネットには、非常に役に立つ情報から暴力、性(悪い意味の方)、嘘、間違い、あるいは詐欺行為のための情報などが氾濫しています。有効に利用するためには利用技術以前の「価値基準の確立」とかいった基礎能力が必要であると思います。
その基礎能力の養成が今、非常に疎かになっているのではと危惧しています。また、人々の間で価値基準の違いが大きくなれば、その両者間で争いが起きやすくなると思います。

2006年1月12日
自己解剖の勇気

これは、司馬遼太郎氏の「雑談 昭和への道」最終回の題です。
この場合の「自己解剖」は日本のことです。失敗したことや対外的にも都合の悪いことを隠したり、誤魔化したりして「教訓」とすることしてきませんでしたね。その結果、太平洋戦争まで突入し、アジアの諸国民に多大な損害を与え、国民にも与え、さらに天皇陛下に「死」まで覚悟させ、そして負けました。
その時々で、的確な「自己解剖」をしておけば、今でも「大日本帝国憲法」のままでは思います。自ら、明治体制を崩壊させたわけです。
ところで、ホームページ巡りをしていると、時々、「また日本を潰すつもり」みたいなところに行くことがあります。要するに、昭和20年までのことで、ごまかしやすり替えをしているわけです。
ドイツが、ヨーロッパ諸国から受け入れられたのは、経済力ではなく、ナチス体制に対する反省というか第二次大戦でドイツのしたことを素直に認めたからです。
今、日本は、経済力で持っています。この関係が逆転するのも間近でしょう。そのとき、日本がアジアで受け入れられるかどうかは「自己解剖」ができるかどうかによると思います。

2006年1月10日
読解力

読解力という表題にしましたが、「ことば」で表現されている事項の分野はどの程度の範囲になるのでしょうか。また、現在形とか過去形とかの時制はどの程度あるのでしょうか。
事実の述べているのか、提言等未来に向けたことを述べているのでしょうか。論説か、感想かなど多数ありますね。
「ことば」で表現されることは多種多様ですね。理解するためには受け手も日頃から多様な分野の学習が必要ですね。怠ると発信側にも受信側にもなれないかもね。
表現する方は、できるだけ「誤解」や「意味不明」ととられないようにしなければなりませんが、読み手も「先入観」を持つすぎたり、表面的すぎると、間違った解釈をしてしまうことがあったり、全く通じないということが日本語を使う者の間でも起こりうるわけです。
大学の入試問題でもみられます。大学入試センター試験の科目のうち、「生物」で問題を理解するのに必要なのが「読解力」でそれに「想像力」があれば、結構得点できます。そして、生物の素養があれば、高得点も可能です。また、旧帝国大学系の生物問題でもみられるのが、読み込むのが大変ですが問題の中にヒントが多数ちりばめられているというのが結構あります。
インターネットでの情報は、多くの場合、何度でも読めますので、読むのであればしっかり読む習慣をつけてできるだけ的確に読みたいですね。
発信は、できるだけ「誤解されない」「意味不明にならない」ように努めたいです。
大学入試センター試験の受験案内の内容が理解できなかった高校の国語教師がいました。この受験案内は「難解」だったのかな。私にはわかりやすかったですけどね。

2006年1月3日
教育の目的

教育の目的は何なのでしょうか。
「人間は教育を受けてこそ人間になる。」ということがあります。これは、人間として社会生活を送るための必要最低限のことについての教育であろうと思います。今はこのあたりの意味が抜けているような気がします。義務教育(国や地方公共団体と親に課せられている義務)の教材はそのあたりを取り込んでいると思うのですが、親や教師の意識の問題かな。受験に走りすぎているような気がします。
もう一つが、子供の持つ能力が伸びるのを助けることでしょうね。その中には、大学進学もあればスポーツ選手、技能労働者、その他いろいろな道があるのですが、大学進学だけに偏りすぎてはいませんか。それぞれの分野で秀でている方は賢いですね。
入試とかで希望者が募集定員より多い場合は何らかの選抜方法を考える必要があります。でも、日常の教育活動で順番みたいな相対評価は不要だと思うのですがいかがでしょうか。
大学入試では、どこそこの大学に合格でき、且つその大学で学業生活が送れる学力を最低限つければよいわけですね。入試の部分だけ、そこの希望者でも順番が気になるだけでは。だから、模擬試験をしているわけですね。こちらは「順番」がどうしても必要かも。
これも、その子の目的を達成させるためであって、順番は結果としてついてくるものでは。ところが、順番ありきの風潮の勢いは衰える気配はないですね。それも、狭い範囲でのね。本当、「井の中の蛙」ですは。

2006年1月2日
生まれた月と能力の関係

スポーツ選手に関する記事が12月31日付の朝日新聞社会面に出ていました。ラグビーとサッカーを指導されている方がプロ野球やJリーグ、ラグビーのトップリーグの選手の生まれた月を調べてみたらというものです。
プロ野球やJリーグは4〜6月生まれが全体の4割ぐらいで後7〜9月が3割、というように減っていっているというのです。ラグビーはこのようなことが見られなかったということです。
プロ野球やJリーグは結構低年齢からやっていますね。このときは生まれた月による発達の格差が大きいのですが、指導者がそのことを認識していない場合、4〜7月生まれがよく見られるということになります。あと数ヶ月すれば追いつく可能性が大きいのにもかかわらず、その場の違いだけで優劣をつけて、その固定観念を変えようとしない可能性による弊害が大きいと思われます。
学業でも、やはり違いが見られますが今は「ゆとり教育」のおかげで違いがさほど現れないので1〜3月生まれでも楽に追いつけるようですね。もっとも、大人が無理解であれば、やはり不利でしょうね。
この記事にも書いてありましたように、長い目で発達状態を見ていくという姿勢が必要でしょうね。尿力の発達にはいろいろなペースがあるのだということを前提にして対策をすれば生まれた月による尿力の差は大人になるころには感じられなくなるはずです。
固定観念で見ないことですね。