煙草をなくし、安全に暮らせる社会を創ろう(表紙に戻る)   「諸々の言いたいこと」のメールマガジンの申し込みはここをクリックしてまぐまぐのページでお願いします。

主に教育関係を集めました。新しいものが先頭になるように配置しています。
過去分 2007年12月まで 2006年12月まで  2005年12月分まで 2004年12月分まで 2003年4月から2004年3月分まで 2003年3月分まで

2008年12月28日
中央教育審議会が大学の卒業認定の厳格化を答申

 12月24日に「大学の学部(学士課程)の教育水準の向上を検討していた中央教育審議会(中教審)は総会で、成績評価や卒業認定について厳格に判断することなどを求めた報告をまとめ、塩谷立文部科学相に答申した。」ということです。
 日本の大学の卒業認定の甘さは有名ですね。これは、大学に限ったことではなく小中高校でもですね。ただ、小中学校は義務教育(国・地方公共団体や親が義務なのです。)ですから、児童生徒がある一定水準以上に達するように指導することが必要です。そして、学齢期以外でも無償で教育を受けられるようにしておくべきが、そういう仕組みにはなっていない。そして、予算とか教員の人数の関係で補習授業などほとんどできない状況のまま、放置されているのに、みんな一緒に進級、解らないまま進級、できないまま進級、その結果が学級崩壊などにも繋がっていっていると考えます。子どもの成長を早い遅いを考慮に入れないから、変な競争が起こるのです。
 その年数だけ過ごせば、卒業させている義務教育ど同様になってきたのが、高校かな。こちらはまだ、転学とか退学とかがありますが、よほどでない限り入学できたら進級、卒業ですね。どの水準にまで学力が達したかは関係ないです。平均点を基準に欠点を付けたりしているのだから「皆でサボれば怖くない」ですからね。このような生徒らが大学に進学すると、そりゃ勉強しませんよ。
 今の状況では、大学も高校も外部試験を導入して卒業認定をするほかないでしょうね。高校では、手始めに大学入試センター試験を活用して6教科8科目ですべて50%以上とかを大学入学資格の最低ラインするとかね。大学進学以外の生徒については徐々にこのセンター試験の受験の範囲を広めるとかね。
 大学については、学位授与機構とか日本技術者教育認定機構とかの認定を大学自身に受けさせて、レベルを維持するほかないのでは。外部からの目がないと質の低下が起こりかねませんからね。
 兎に角、大学の入り口と出口の両方で外部試験の利用とか認定とかを義務づける必要があるのでは。それも、世界に通用するような仕組みでね。

2008年12月26日
「高校英語、英語で教えるべし」とかの次期学習指導要領の改訂案発表される

 12月22日に文部科学省は、2013年の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案を発表しました。各教科、減らされた項目が復活していますね。対照表が文部科学省のサイトにありますので、興味のある方はご覧ください。
 ところで、生徒の学習意欲の方ですが、どうなるのでしょうか。ゆとりにする前の水準に戻すことになるのですけど、当時から学習意欲の低下が指摘されていました。そして、「これが出る」式の暗記物がもてはやされてはじめました。「出る順・・」とかいう参考書ですね。今も「答えは一つだ。それだけ教えろ」とか「最も簡単な解法だけを教えろ」というのが増えているとか。
 この現状を改善しない限り、奥の深い真の意味での学習意欲はほとんどの生徒でわかないでしょう。「学習権」(児童生徒にとっての教育を受ける権利)を本来の意味で保証するためには、間違った学習観をただす必要があるのですが、昨今の文部科学省実施の全国学力調査を巡る大阪府や鳥取県、秋田県などの動きは「兎に角、得点」という今の学習観そのものであると考えられます。
 一部の良識的な親に育てられている一部の子どもが真の意味の学習観(自分で調べ、自分で考え、答えを出してみて、添削してもらったり自分でも点検して、次の段階に繋げる)をもち、高学力を維持することになりそうですね。学歴の世襲が起こりかねないのです。教える項目を増やしても、学習意欲というのは簡単には向上しないのです。学力を向上させるには「子どもは親の背中を見て育つ」「子どもは大人を見て育つ」ということを肝に銘じて、すべての大人が安直な学習法を否定していくほかないのでは。
 「落ちこぼれ防止法」で学校間競争を持ち込んだアメリカでは「落ちこぼれ」が増大したとか。
 でも、今回発表の方が現行より、マシでしょうね。ただ、日本語もおぼつかない高校生に「高校英語、英語で教えるべし」とするのは無理があるのでは。それとも、英米の幼児が成長していく過程みたいな教材でも用意して使用させ、できたら、英米の小学校程度でとか段階をおっていける教材を文部科学省が用意するのですかな。

2008年12月16日
全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果の扱いについて

 12月16日に日本経済新聞のサイトに『学力テスト「非開示」徹底を 文科省会議09年度素案』という見出しの記事がでていました。文部科学省はあの昭和の「学力テスト」の二の舞を避けたいのでしょうね。あのときは「平均点競争」が加熱して、テスト中止に追い込まれたのでは。どうして、学校平均が90%を越えたりなど、不自然さが目立ちました。それを避けるためでしょう。
 同じ12月16日に朝日新聞のサイトで『橋下知事「文科省はバカ、全員かわれ」 テスト非開示で』という見出しの記事が出ていました。これを取り上げたというのは、朝日新聞は平均点などを開示することに賛成なのかな。日本経済新聞では朝日と同様の記事を探しましたが、探し方がまずいのか見つけられませんでした。その逆もです。
 平均点とかの眼がいってしまうとテストの本来の目的が霞んでしまうことになると思います。特に日本では。また、アメリカでは「落ちこぼれ防止法」とかをつくって学校間の点数競争をさせたところ、落第が増加した上、学力も低下したとか。イギリスでは、同様の競争原理を導入したところ、学力低下が深刻になってきたのでフィンランド型の底上げ型に変えたというのです。
 今の日本の状況は、「順位」に拘り続けてきた結果であると考えられます。とにかく、「順位」が上がればよいのですから、真の意味の自発的学習動機には当たりません。その結果、表面的な勉強に終始することになり、さらに間違った「ゆとり」が「暗記」での順位競争に拍車を掛けることになったと思われます。
 だから、各学校に「問題ごとの正答率」とか「間違いパターン」とかを現場で活用しやすい形で還元したり、受験した児童生徒の個人票等を工夫して、「勉強の手助け」となる形にする方向が重要だと考えます。順位競争は「昭和の二の舞」になるだけです。それでなくても、意味のない順位競争の好きな民族なので取り扱いには注意する必要があります。
 「昭和の学力テスト」の破綻を考えるとどちらが「バカ」かは自ずと解ってくると思います。

2008年12月12日
幅広い学習の重要性、数学の重要性

 12月11日の日本経済新聞文化面「私の履歴書」で書かれていたことです。今月は経済学者の小宮隆太郎氏です。
 「研究者を目指すなら、数理経済学を基礎の基礎から学べといわれた。指導を受けていた古谷弘先生は経済理論に必要な数学を徹底的に勉強しようとのお考えだった。」とありました。そして、「私の軽座苦学研究にとって数理経済学を勉強したメリットは計り知れない。経済学の様々な問題を考えるときに、論理的整合性のある理論モデルに基づいて考える習慣が身についた。」ともありました。
 結局、数学は道具でもあるが、論理性を身につける重要な要素だったことになるのでは。論理学をする上で、数学が重要な役割を持っているとのことです。
 日本の場合、数学もそろばんの延長みたいな「計算力」偏重の面が強いのかもしれません。それが、数学を面白なくし、その本来持つ重要性を消し去っているのかもしれないですね。
 歴史の学習においても、事件・事項の暗記に重きを置くような感じがしてならないのです。そうすると、歴史の重要性「歴史を鏡」とできなくなってきますね。それが、あの元空将の発言になってきたのかも。
 幅広い学習でも、暗記中心では効果は出にくいでしょうね。数学を学習しても「計算演習」ばかりではこれも効果は少ないでしょうね。数学で「論理性」を鍛え、それを活用して、自ら調べ、考え、論理的に発表するするような学習が是非必要だと思います。
 でもね、どのぐらいの教員ができるのかな。

2008年12月10日
大阪府や大阪市で全小中高への携帯持ち込み禁止を通知

 12月になってから、大阪府の橋下知事が「学校への携帯持ち込みについて、橋下知事は3日、原則禁止とする方針を表明。」しました。それを受けて「塩谷立文部科学相が5日、現場での対応について教育委員会を対象にした実態調査をする方針を示している。」ということですが、大阪市教育委員会は見出しみたいに「全小中高への携帯持ち込み禁止を通知」したということのようです。
 学力と携帯ですが、学習が楽しければ、使い分けができると思います。ということは、学習が面白くないようですね。どうしてでしょうか。それと、関連があるかもしれないのが「いじめ」ですね。
 今の子どもはどのように評価されているのでしょうか。それぞれ児童生徒の能力の向上の具合を児童生徒に解るような形で評価できているのでしょうかね。疑問疑問だらけです。人間、本質的に自分より何らかの形で下がいるということで安心感を得るような弱い存在かもしれませんね。その時、匿名でできる「ネットいじめ」は手軽に利用できると感じているのでは。
 どちらも、携帯があるから起こってきたことではなく、元々、人間の持っていた弱さが携帯を利用することで顕在化してきたとみるべきと思います。
 それと、生まれてからの生活の中でどれだけ正しい意味で親の愛情を受けてきたのかという問題ですね。「機能不全家族」の割合はひょっとしたら増加中かも。その一因が親の労働環境の悪化にあることは論を待たないと思います。将来の労働力の質も低下させている長時間低賃金労働の弊害に気づいてほしいですね。
 これを解消する一つの方法が「構造改革」だったのに、再び「高コスト政府」への動きが活発になってきています。行政が高コストでは民間企業は低賃金で働かせるか、工場を海外に移転するしかないのでは。行政による高コストのツケは港湾や空港ではもうはっきり出てきています。そして、その関連の仕事も海外流出していっているのです。
 教育の基本は親が子どもに関われるようになることだと思います。「子は親の背中を見て育つ」ですからね。

2008年11月26日
「読み飛ばす勇気」と「立ち返る勇気」

 11月24日の日本経済新聞教育面の連載「挑む」にあった言葉です。見出しは「学習内容の理解とは」とあって、「読み飛ばす勇気も必要」とありました。
 学習を進めていく上で、その単元を理解するというのは必要なことですが、それに拘って、いちいち全てを理解しようとすると結局、理解が不十分になってしまうことがあるというのです。
 『勉強とは、高度な学習内容になるほど多の項目や分野を応用する場面が増えるため、知っている内容だけですべてが腑に落ちるわけではない。多くの知識が積み重なっていった後に、ふと振り返ると「あー、そんなことことだったんだ」と納得する瞬間が訪れるものだと思う。』と書かれています。
 そうだと思います。その分野の基礎事項でもいろいろ学習をしてからでないと理解できない部分やその項目のありがたみが判らないことはたくさんあります。その時は、取り敢えず、「活用できるようになっておく」というのでもよいのではとも思ったり増す。
 「読み飛ばす勇気」とは、取り敢えず活用できるようになっておくということで完全な理解は後回し(他の単元も学習してから)でもよいような部分に対してですね。活用できるかどうかは数学では問題演習で確かめてみるとかは絶対必要だと思います。あの有名な「集合論」は大学程度以上の数学を理解できるようになって理解できるものかもしれません。でも、「集合論」は現代数学の基礎ですね。化学でも「モル」の概念とか、物理の「運動方程式」や微積分の基礎的な部分になる「加速度、速度、移動距離」の関係も同様かもしれないですね。歴史も一つの地域だけやある年代だけではその歴史的意味を考えることはできないですね。
 「立ち返る勇気」は、ここでいう「読み飛ばし」してきた部分などや理解できたと思い込んでいた分野に対して、必要とあれば、復習することや今まで学習していない部分も学習することをを躊躇わないことだと思います。
 この2つを上手く活用することで学習の効率が上がる場合があると思います。ただ、「立ち返る勇気」は絶対に忘れないで下さい。

2008年11月4日
「つぶれない企業教えて」というけれど

 11月1日にYahooで時事通信配信の『「つぶれない企業教えて」=採用内定取り消し相次ぐ−経済情勢悪化で学生に危機感』という記事を見つけました。内容は「世界的な金融危機など経済情勢の悪化で、大学生の企業への採用内定が取り消されるケースが相次いでいる。」ことから、採用取り消しや倒産の心配のない会社の見分け方を知りたいというものですね。
 まあ、厚かましい感じがします。それなら、より安定的な公務員になればと思います。こちらも昨今は以前より不安定になってきています。
 「つぶれない企業」とかが見分けられるのなら、どうして銀行が経営危機に陥ったりするのでしょうか。超巨大企業などはつぶれないと思います。というか、倒産させると影響が大きすぎてね。でも、その時は「リストラ」の嵐でしょうね。公務員でも地方公共団体では実際にリストラの嵐に見舞われたところがあります。国家公務員も風当たりがきつくなりつつあるので要注意かも。
 結局は、各個人の仕事上の能力によって、リストラとか倒産とかがあっても再就職がしやすい、しにくいとなっているでしょう。でも、今の企業の新卒の採用姿勢を見ていると人材のどこを見ているのか解らないところが多いですね。人材本位といいながら、出身大学で採用している感じのところが多いのでは。
 「つぶれない企業」を求めるなら、大手企業に、堅実性があって成長中の企業にですかな。皆、今でも集中しているかな。倒産しかけはどのように見分けるかは勉強すれば判るようになるとは思いますが、優良企業が噂だけでひっくり返るような時代ですからワケが判らないですね。
 それとも、医師免許でも取りますか。看護師も良さそうですが、病院の倒産が多くなってきているようです。薬剤師は供給が多くなってきたから・・・。

2008年10月25日
高校入試において内申書はどの程度信頼できるのでしょうか

10月25日の朝日新聞社会面で都立高校に進学しない生徒の分の成績表を東京都教育委員会が集めていたことに対して、「東京都教育委員会などが無断で自分の成績表を収集したのはプライバシーの侵害だ」として都立高校に進学しない生徒が損害賠償を求めた訴訟で、東京地方裁判所は24日に『「成績表の開示は許容できない」と請求の一部を認め、学校側と東京都、新宿区に3万円を支払うよう命じた。』判決を出しました。
教育委員会側は進学しない生徒の成績を悪くして希望者の成績を底上げする恐れがあるからとかいう理由から集めていたというのです。これは、どこの教育委員会もそうでしょうね。
この仕組みが機能するためにはいくつかの条件が必要なのですが、文部科学省の学力テストでの騒ぎを見聞きすると全く無視されているでしょうね。
その1、全ての中学校の学力が同じで分布状況も同じである。
その2,その1を担保するために頻繁に統一試験を実施しているなどして判断基準を統一する努力をしていること。
など。
以前から地域格差はいわれていましたし、少人数校の分布のゆがみも指摘されていますね。内申書は厳密な意味では点数化できないものでは。する場合でも、各学校ばらばらの問題などによる価値基準でされていることを考慮する必要がありますが、していない。できっこないですよ。
ある県で聞いたことがあるのですが、内申書点はよいが学校が荒れていて十分な授業ができていないところの生徒は進学後の成績が、多くの場合、下半分以下になることか。
内申書は参考資料程度で使うべきですね。内申書重視の高校入試のお陰で中学校3年間が全て受験をなってしまいましたね。内申書で生徒を締め付けると荒れるとか。
一発勝負と嫌われていますが、当日の筆記試験などを主資料とする入試の方がよいのでは。

2008年10月17日
文部科学省事務次官 教育委員会による学力テスト開示に「適切でない」

10月6日の記者会見で『「市町村教委は学校別の成績を公表しないことを前提に参加しており、適切でない」と不快感を示した。』というのです。
久しぶりにまともなことを事務次官が記者会見で述べましたね。
今の日本の状況は「背景をなにも考えないで順位で判断」なのですね。ですから、「学力とは」を考えずに記憶のみでできるようなテストの得点で順位を争ったりしています。
公立学校では、どの地域に立地しているのかとか、どのような教員が配属されているとかなどで学力が大きく違ってきます。でその「学力」とは?ですが、学力テストは詳細に検討すれば、児童生徒の学力向上に使えると思います。でも、順位で判断するようになると昭和40年代のアホみたいな事態になってしまうと思うのです。
今、各地で過去の二の舞になりつつあるような気がしてならないのです。不正で学校平均が90%を越えるとかいうようなことですね。テストの意味をよく理解している場合は公開しないでしょうね。
ただ、文部科学省は不利な状況の子供の多い地域に予算配分を増やすような工夫をしてほしいですね。財務省に理解させて下さい。国会議員に理解させて下さい。国民に理解させて下さい。

2008年10月13日
中高生の喫煙「たばこ千円なら吸わない」厚労省研究班調査より「教師が吸わないことの効果も」

10月8日に厚生労働省での発表ですね。
厚生労働省研究班の調査によれば『たばこを吸っている人は1箱いくらならやめると思うか」という問いに、64.5%の生徒が「千円以上」とした。』というのです。まあ、高くすれば喫煙率が下がるのは当たり前かも。
それより、喫煙率についての部分で『喫煙率は、中学男子2.3%、女子2.0%、高校男子9.7%、女子4.7%と、いずれも96年時の調査と比べて半分以下まで下がった。』というのです。
発表の中で『大井田教授は「校内を全面禁煙にするなど、社会の禁煙活動が浸透した結果ではないか」としている。』ということですね。学校敷地内禁煙だけで「半減」ですよ。学校での教師の喫煙可能場所が狭くなるにつれて生徒の喫煙も減少してます。たいして値上げもしていないのにです。こちらの方の効果も大きいですね。さすがに「大人の背中を見て育つ」ですね。ということは、健康やスポーツに関わっている大人などの喫煙が小中高校生に悪影響を与えているという疫学的証明になっていますね。
「教育」で一番影響を与えているのが身近な大人ですね。このことを忘れないようにしましょう。

2008年10月9日
大学生相手の講義ノート販売低迷

10月4日に朝日新聞のサイトに出ていた『「講義ノート屋」氷河期 京阪神の大学で「閉店」』を読んで思ったからです。
販売低迷の理由として「出席率の向上」、「ノートの質の低下」などがあげられていました。
「出席率の向上」ですが、出席を取る授業が増えた、学生のまじめ化 があげられていました。「まじめ化」はよい現象でしょうね。でもね、出席率が向上しても学力向上に結びついているかどうか疑問のデータもありますね。
「ノートの質の低下」についても、「出席したこととか、板書をノートに写したか」を評価されることにならされてきた点が結構あるような気がします。それが、ノートの質に低下に繋がっているように思われます。昔のノートには板書以外の口述を書き留めた部分とかテストに出そうな要点とかが記述されていたとか。今は多くが写しただけだというのです。完全な受け身ですね。
ひょっとして、大学でも定期考査で「ここが出る」とかいってもらわないと困るような学生が増えてきているのでしょうか。
「ここが出る」とかいいながら板書すれば、皆書き留めますね。
京都大学の工学部である化学の科目で以前と同様のレベルで試験をしたら不合格率が約10%から約40%に跳ね上がったとか。勉強の質が昔とは変化した結果なのでしょうね。
このこと(講義ノート販売低迷)がよい方向へのシグナルであれば思います。

2008年10月3日
学習と活用意識と相乗効果

9月22日の日本経済新聞教育面のコラム「数字は語る」で「全国学力テストと生活態度との関係」についてが「活用意識で相乗効果」という見出しで書かれていました。
「新しく習った漢字を実生活で使おうとしているか」で、「当てはまる」と答えた児童生徒の層の方が国語だけでなく、算数・数学とも高かったというのです。また、算数・数学に関して「学習したことを生活の中で活用できないか考えるか」の設問に「当てはまる」答えた層の方が国語の正答率も高かったというのです。
どちらも、実生活で活用できるように使用という意欲が学習の定着を促進していると考えられるのですね。
実際、学校での学習内容は実生活で役にたちますよ。「読み書きそろばん」は当然として、数学での「論証」、地歴公民での社会全体に対する理解の深まり、理科による自然や科学技術への理解、その他いろいろなところで役にたっているのです。
ところが、勉強に対する意識とテストなどの評価方法のまずさによって「勉強は暗記」という後々使い物にしにくい形になってしまっているのです。
人間は「教育」されることによって、漸く人間になれるのです。学習したことがらは活用されて、はじめてその人にとって使える形で記憶に残り、いつでも再利用できるようになるものだと思います。

2008年9月27日
偏差値の意味、順位の意味

9月22日の日本経済新聞教育面のコラム「挑む」で「順位で騒ぐのは無意味」という見出しで書かれていました。副題が「テストの結果は反省材料」です。
コラムの中に「生徒たちはテストを返すと・・・」というのがありましたが、これは得点の比較ですね。それをしているのです。どうして、その方を気にする生徒が多いのでしょうか。
これは親ですかな、テストの結果のうち「得点」のみを気にしているのが多いからでしょうね。テストというのは「出題者の価値観」にどれだけ合致したかを測定するものですね。その「価値観」ができる限り「普遍的」であり、適切な方法の場合に限り、「生徒の学力点検」に利用できるのだと思います。あくまでも「学力点検」です。
日常の学校での定期考査、課題考査、小テストなどはこのような観点から実施されるべきでしょうね。適切な出題であれば、入試にも対応しているのですが理解されていないようです。
模試はその種類、実施時期によりますが、入学試験の模擬として実施しているのですね。入学試験では「順位」をつける必要がありますね。順位を付けて「合否」を判定しているのです。(その前に入学後に必要な学力があるかどうかの判定がほしい)
この模試でもあくまでも「模擬」です。本番とは異なります。実際、大学や高校などのランクでよく使われている数値は60%合格ラインですね。模試の段階でこれより相当低くても合格したり、その逆に高いのに不合格というのがよくあります。実際、最後の一ヶ月ほどの最後の踏ん張りで有名大学の有力学部に合格することもあるのです。結局、本人のやる気と模試などで学力のムラを見つけ出し、それを克服する材料にできるかどうかであって偏差値などで一喜一憂するものではないと思います。
ですから、偏差値はあくまでも「目安」程度であって、模試も定期考査と同じように弱点を見つけたりして、学力の不十分なところを補強するための材料を提供するのが最大の目的ですね。
よく「順位」を勉強の動機づけに使っている場合がありますが、他の生徒の頑張りがぼちぼちのときに自分だけしっかり頑張った場合などは順位の上昇が見られるとはおもうのですが、他の生徒も頑張っていると順位の上昇どころか降下もあり得るので「挫折」に繋がる可能性がありますし、「皆でサボれば怖くない」で全校あげての「低学力」への道を進む恐れすらありますね。高等学校の「内申書重視」は完璧な順位でできた内申書を利用しているので低学力層から諦めが広がっていって、学力低下に繋がったのかもしれませんね。「順位」はだれかがサボってくれるという前提で有効でしょうか。

2008年9月25日
「大学進学者、学力担保へ」教育再生懇が提言へ

9月21日の日本経済新聞社会面に「AO・推薦大学進学者、学力担保へ新試験 教育再生懇が提言へ」という見出しの記事がありました。記事の方は「AO・推薦大学進学者」に限っているようなのですが、現実は一般入試も含めるべきでしょうね。
日経ビジネスでも大学生の学力問題が取り上げられていて、京都大学工学部や東京大学理科一類などの例が出ていました。
間違った意味のゆとり教育の弊害ですかな。また、高等学校入試の内申書重視や大学入試での共通一次試験、大学入試センター試験や個別試験でも択一式が多用されてきた成果が出てきたのが「学力低下」です。
「共通一次試験」や「大学入試センター試験」は良問揃いなのですが、「択一式」ということで、「まあどれか選べばよい」とばかりに問題をよく読まなくなったり、ヒントになりそうなことを覚えておけばよいとかに大多数が走った結果です。
たびたび書いていますが「出る順」に覚えればよいという発想ですね。人間という動物は、理解したことや興味のあること、印象深いことなどはよく覚えているが、理解していないことや興味のないこと、印象のないことはすぐに忘れるものなのです。このことを理解せずに「暗記」にはしる勉強がはびこりだしてから「学力低下」が起こってきたのだと考えています。
それに追い打ちをかけたのが間違った「ゆとり」ですね。その間違った「ゆとりの結果、高校入試は「暗記」で済ますことができるようになったので、勉強とは「暗記」という思い込みができてしまったのでしょうね。
「高等学校入試の内申書重視」が長いこと「完全相対評価」でしたね。そこには採点の曖昧さは教師の命取りになる可能性がありました。曖昧さを排除すると「答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなどという生徒」が増加することになり、今はほぼ完全にこの「答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなどという生徒」が親の世代にも多数を占める事態に至ったと考えます。
難関国立大学や国公立大学医学科に多数の合格者を出しているところは「答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなどという生徒」は来てほしくないところが多くあります。数学なら苦労してでも「別解」も考えるような生徒に来てほしいということです。
いろいろな理由で学力が低下してきているので大学進学者は全て大学入試センター試験か同等の試験を5教科7科目以上受験して50%以上の得点率をもって進学を認めるという方向にしてほしいですね。

2008年9月21日
子供は親の背中を見て育つ

9月15日の日本経済新聞文化面「私の履歴書」で今月の筆者の野依良治氏は「男の子は父親の背中を見て育つ。」と書かれています。野依氏自身が父親の影響で自然科学の道を歩んだと書かれています。でも、野依氏の息子さんたちは自然科学の方には進まれなかった。でも、勉強を楽しんでするというのか、そういうことは背中をみて育たれたようです。
このパターンですと「女の子は母親の背中を見て巣立つ。」ということですかな。実際、子供に対する態度などにどこか似ているところが色濃く出てきますね。
どちらにせよ、「子供は親の背中を見て育つ。」ということです。ですから、夫婦仲が悪かったり、どちらか、あるいは両方が性格的に問題があったりすると、その影響は子供に降りかかってきます。特に見える虐待をされている場合は大きな悪影響を受けるでしょうね。見えない虐待でも楽しんで勉強しているわけではないと思いますので悪影響が出るでしょうね。
よく、「今時の若者は・・・」というのを聞きますが、「子供は親の背中を見て育つ。」のであり、「子供は身近な大人の背中を見て育つ。」のです。何年か前に日本ハムのダ・・・投手がパチンコ屋で喫煙しているのが見つかって問題になりましたが、あれは、親かあるいは野球部の監督、コーチ、部長のだれか、または複数が目の前で喫煙をしていた可能性が高いです。
左様、いろいろなところで子供は親や身近な大人の影響を受けているのです。

2008年9月19日
国語力の大切さ

9月15日の日本経済新聞教育面のコラム「挑む」に『「受験で問われる国語力」論理的に文章読み解く」』というのがあります。
塾講師をしている著者が関わった生徒の話から国語力の意味を語られていました。
「問題文を根拠を取って、理詰めで正解までたどり着くプロセスを学んだかどうかは大きな違いとなって得点に表れる。」と書かれていました。
確かにそうだと思います。一日おきにこのような書き物をしていますが、いつも、「読みやすいか」「わかりやすいか」などを気にしながら書いています。読み返してみると自分でも?と思うようなところが出てきて冷や汗を出しています。
理詰めで正解にたどり着けるようになると、理詰めのわかりやすい文章を書けるようになっていっているとも思います。
さらに、数学の問題文は数式だけですか?。理科の問題文は?。地歴は?。全て日本では日本語で書かれていますね。そして、それぞれ教科特有の意味を持って使われています。国語力としてそれらを理解しているのと、単に字面だけを丸暗記したのとでは大きな違いがあるのです。
理解し使える言葉、それを利用して文章にする能力があるのか、ないのかは国語だけに留まらず、全教科に影響してきます。
大学入試センター試験で、文章読解力で解答できる問題を多く含む教科が国語以外にも結構あります。
個別の大学入試で長文読解型の理科の試験をしているところがあります。
まずは、用語を「理解し使える言葉」としておくことから始める必要があります。次に、文章の形に表現してみて「意味が通っている」ようにしてみると幾分かは練習になると思います。
このようなことを書きながら、意味不明のところがあるかもしれません。ご容赦下さい。

2008年9月17日
見える虐待と見えない虐待

1999年発刊の「こころの科学セレクション 依存と虐待」斎藤学編集 日本評論社刊 のなかにあった概念というか事象が取り上げられていました。
ある母親が勉強をしている息子に夜食にとラーメンをつくって持って行って振り向きもしない息子に「がんばって」と声を掛けたら、ドンブリごとラーメンが飛んできて、「これ以上どう頑張れというのだ」と言って、それから、母親への暴力が始まった。それで、カウンセラーのところへ母親が相談しにいって「息子を直してほしい」とかなんとかいったというのです。
編者は、母親が長年「親の期待で子供を縛る」という虐待をしてきたことにこの母親は気がついていないと書かれています。
殴る、食事をさせない、などは外部からわかりやすいですが、「親の期待で子供を縛る」というような虐待はわかりにくいですね。そして、この息子のように声を上げるのは少なくて、虐待から逃れようとせず、健気に努力しているこの方が多数であろうとも。さらに、このような親子関係が「健全」と思われている状況を嘆かれていました。
どうしてかというと、「子供は親の喜ぶ顔が見たい」という意識が根底にあるというのです。それで、親の期待に添うように努力をするわけですね。ところが、現在の親の期待する価値観は大体同一ですね。そう、「学業成績がよいこと」、それも「順番」が基本ですね。勝者はまだいいですけど、敗者が必ず出てきます。どちらに対しても虐待の可能性があるのですが、敗者の方により強く出てきます。ですから、どこかで躓いたりしたら、その中から、虐待から逃れるためにラーメンを投げつけるような子がでてくる可能性がありますね。
「子供は親の喜ぶ顔が見たい」という意識で子供が頑張るので、「親の期待」がいつの間にか「子の希望」と思い込んでしまう親もいるようです。この場合、親は虐待とは気がつかないでしょうね。
詳しくは「こころの科学セレクション 依存と虐待」を読んでみて下さい。

2008年9月1日
文部科学省が8月29日に全国学力・学習状況調査結果発表

8月29日に文部科学省が8月29日に全国学力・学習状況調査結果をしましたね。詳細は文部科学省のサイトでご覧ください。
それで、なにか「順位」ですね、それを気にする声の方がこの学力調査を有効に役立てようとする声より大きいような気がしてならないのです。
例えば、本社機能を東京に吸い取られて、ある層の家族の流出が見られるO府ですね。低下気味なるのは仕方がないですね。それを知事が・・・。その割にパッとしない東京都。
悪いですが、子供たちの学力はどのような家庭に生まれたかということが、昔より影響を受けるようになってきているのでは。
学力の固定化ですね。これが、起こっているのですね。とすると、ハンディーを負わされる子供の多い地域には手厚い教育が必要になるのです。一部の自治体では対策を講じているのですが、日本の発想はどうも逆。
大学関係者でも、逆の発想をして受験業者を助けた例があります。センター試験の前身の「共通一次テスト」。なにか、「業者による序列化をなくす」とかいうのも導入の目的に入っていたような。ところが、合否の判定に「得点」を直接的に使ってしまって「共通テスト」による序列化の資料を提供してましたね。今もそれは続いていますけどね。京都大学理学部みたいな利用の仕方が最適だと思うのです。
判断する材料に基準となる学力程度を考えているところがどのぐらいあるのでしょうか。そして、詳細に検討して「ハンディー(家庭不和なども含む)を負わされる子供」の対策に活用できる体制を作ろうとする自治体がどのくらい出てくるのでしょうか。これを国として支援することができるのでしょうか。
フィンランドをモデルに、また、イギリスの最近の取り組みを参考にして考えましょう。各学年で到達すべき目標に届かない子供を支援する体制を。

2008年8月26日
学習とはなにか

8月25日の日本経済新聞教育面で塾の先生が書かれているコラムで取り上げられていました。
東京のある国立大学附属高等学校で生徒募集に際して学校側からお願いですかな、「本校を受験しようと思っている皆さん及び保護者の方々へ」と題する一文です。その中に「本校は、有名大学に生徒が入学できればそれでよし、などとは考えておりません。受験勉強的な学力、すなわちどうすれば大学入試において、すばやく容易に一点でも二点でも多くの点数を取れるのかなどというテクニックには、こだわっておりません。生徒各自が主体的に、学問に対する絶えざる好奇心・誠実さ・判断力・創造性を培うとともに、自己の心身を鍛え、また他人に対する思いやりをはぐくみ、本校卒業以降の人生・学問に資すべき幅広い視野・思考能力・知識・態度・意欲等を養うことを強く求めてまいりました。そして、その結果として現在の本校が存在することを認めていただきたいと思います。答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなどという生徒や、勉強のみ得意で掃除も満足にできない生徒などは、本校には不向きであると思われます。本校においては、勉学も掃除も等価値であります。以上のことをご理解いただいた上で、本校入学をお考え下さい」とあります。
すみません、ほぼ全文に近いです。プレジデントファミリーで取り上げられていた岡山白陵高等学校では数学は必ず「別解」も考えさせるというのですね。進路実績こちらもいいですね。「答えはいつも一つだ、その答えまたは答えを苦労せずに導き出す方法を早く教えろなど」を否定しているところは同じですね。灘中学校も論証に時間を割いているということです。こちらも生徒にいろいろな考え方による証明を推奨しているとか。
そして、「勉強のみ得意で掃除も満足にできない」のも困りますというのです。大体、汚れている(散らかっていると少しずれます)学校というのは評判を落とし、学力も低下していくようです。これは、学校ではないのですが、イエローハット取締役相談役鍵山秀三郎氏が日本経済新聞(2006年3月31日文化面)に書かれていた「トイレ磨きは心磨き」と通じるところがありますね。よく訪問したときに「トイレを見なさい。」といわれますね。トイレに、そして清掃にその心構えが現れることをいっているのでしょう。
学習とは、「将来、よりよい人間になるため」、「将来、したいことをするための基礎をつけるため」、そして、「生きていく上で常に向上していくため」におこなうものですね。
そこでは、答えなど誰も与えてくれません。自分で調べ、考え、判断していくしかないのです。学校での学習はその基礎訓練にすぎないと思います。そして、自分の未来のために必要な能力をつけていくのです。
大学入試等は、本来、そこでの学習に必要な能力があるかどうかを見るものであると思います。それを単なる競争試験とだけ考える人が大多数を占めるようになったのが今の日本かもしれませんね。競争試験は差がつけばそれでよいのですから、レベル低下が起こりやすくなるのも仕方ないのかもしれないです。

2008年8月20日
機能不全家族

8月19日の日本経済新聞社会面に「児童虐待防止 全戸訪問促進へ指針」という見出しの記事がありました。
自治体の活動の後押しのため、今年度中に厚生労働省が指針を作成するというのです。
記事によると生後4ヶ月までの訪問では石川県が100%で最低が37%の県まであります。児童支援家庭訪問では石川県の100%から16%の県まであるのです。それをどこでも石川県なみにしようというためです。予算措置は?ですが、そうると石川県はできて他の都道府県がどうして100%にできないのかということも疑問ですが。
児童虐待の一因には「子育て」を親戚、ご近所で体験できなくなってきているということ大きいと思うので、こういうような訪問で親の相談にのるというのは効果があるでしょうね。
でも、このような訪問があっても、その家族自体が機能不全に陥っていたらどうでしょうか。強制力を持つ訪問でないと「拒否」されたりすることもあるのでは。機能不全家族の場合、親にまず問題があるのです。そして、その親にというように。虐待が受け継がれている現状があるのです。
この虐待は殴るとか、食事をさせないとか、縛り付けるとか、寒い時期に裸にするとか、などのほかに言葉によるもの、拒否するとか、など精神的なものもありますね。それらは、子供の心を傷つけてしまいます。
そして、その子が親になったときに同じようにしてしまう傾向が強いとか。
このような環境で育った人を「アダルトチルドレン」といっているとのことです。
「アダルトチルドレン」はもともとアルコール依存症の親の元で育った人のことだったようですが、現在は機能不全家族の元で成長した人全般を指すようになっているようです。
人間、程度の違いはあっても幾分かは機能不全家族をつくる要素を持っているのかもしれないですね。そして、それが大きく出るとしっかり「機能不全家族」をつくってしまうのかも。こうなると、親のカウンセリング・精神療法なども必要になるのではと思います。
斉藤学氏の著作の中に「アル中らしさ」というのがありました。最近、この「アル中らしさ」の条件ぴったりの人物と出会わしました。本人は自慢話のつもりでしょうが、「機能不全家族」そのものという感じの家族の話をしていました。一家あげて「アダルトチルドレン」なのかも。
思っているよりも「機能不全家族」の割合はもっと高いのではと考えます。モンスターペアレントも「機能不全家族」で育ち、自らも「機能不全家族」をつくっているのではと思うのです。

2008年8月8日
小中学校不登校2年連続増加

8月8日の新聞各紙で報道されていました。文部科学省のサイトにもデータがアップされています。
不登校の児童生徒数が2年連続で増加しているというのです。そして、その比率もということです。
小中学校の児童生徒数は穏やかな変化しかしていないです。
2001年をピークにしばらく減少が続いていたのですが、増加に転じたのですね。
背景にはどのようなことがあるのでしょうか。日本経済新聞の記事によると教育委員会の93%が「人間関係を構築できない子供が増えている」と答えたというのです。また、「欠席を安易に容認したり、嫌がるのを無理に行かせることはないなど保護者の意識が変化している。」というのも65%に達しているとか。
で、いじめの割合はどうなのかな。それはそれとして、気になりますね。「人間関係を構築できない子供が増えている」というものですね。今は子供同士の遊びというのが極端に減っているか、ゲーム機などを使った遊びというのが増えていますね。ゲーム機は下手すると「平行遊び」の段階で止まりますからね。一緒にいても共同して楽しむということになりにくいですね。DSの通信機能を使うと状況は改善?されるかな。
屋外で子供が群れて遊ぶということがやりにくい世の中になってしまっているのもですかな。
「欠席を安易に容認したり、嫌がるのを無理に行かせることはないなど保護者の意識が変化している。」のほうですが、大学卒や高校卒の就職活動で耳にした「よいところがなかったら、しばらくフリーターでも」というと関連があるかも。
子供を独り立ちさせるには、親がどこかである基準で子離れする必要があるのです。その子離れができないのが裏返しとして、子供の「不登校」や「フリーター」として出てきているのかもしれませんね。まあ、フリーターなどの方は企業の採用姿勢の悪さ(新卒絶対主義)の影響が大きいので一概には言えません。
本来、子供が成長の過程で経験するべきものを避けて通らせてきたツケの部分が出始めているのかもしれないですね。
この中には、乳児期に体験すべき「母親環境」が不十分な場合も含みます。

2008年7月31日
定員割れの大学続出

7月31日の日本経済新聞朝刊社会面に私立大学の定員割れについての記事が出ていました。まあ、これはNHKなどでも報道されています。
定員割れの大きな要因は「大学のつくりすぎ」でしょうね。それと、「少子化対策が表面的であったため実効性がなかった」と「大学入学歴」でしか学生を評価できないところの多さとかなどの複合要因ですね。
福祉関係、薬学の新増設ラッシュなど後先を見ない設立ですね。大体から第二次ベビーブームの世代が過ぎれば18歳人口が激減していくのが目に見えているのに、よう造るわという感じです。資格志向で薬学とかに人気が集まると薬学部新設ラッシュ。そして、薬学6年制でダウン。とか。ほんと、目先のことだけしか考えていないですね。大学には永続性が求められるのにです。
それと、小規模校が苦戦しているということ。それも、地方の大学が苦戦している。
受験生が大規模有名大学に集中するのかというと、どうも卒業後の就職先に関係がありそうです。企業の採用について、「優秀な人材」と思えたら、どこの大学の卒業生でもかというと疑問が残ります。先輩訪問やリクルーターなどですね。それで、至近の卒業生の就職実績につられるのでしょうね。そうすると、大規模有名大学が有利になります。兎に角、卒業生数が多いのですからね。大体から、高校生は多くの場合、業界について知らないですからね。一部の有名企業に卒業生を多数送り出しているかどうかぐらいしか分からないでしょうね。小規模大学では、卒業生数の関係でそのような有名企業への就職者が数年でなかったりすると、それだけで、「就職に弱い」とレッテルが貼られたりしてしまいます。悪循環。
「入学できれば卒業は楽」という風潮を解消できていなかった。だから、入学さえできればというのとの関係で大学増設が進んだためもあるでしょうね。卒業時の学力をどう保証するかということに真剣に取り組んでいなかったから、猫も杓子も大学へ向いたが、現実の状況に即して大学進学志望率が上昇しなくなった。設立側もこのことを真剣に考えてなかった。企業も一部職種などを除き、考えてないかもね。
これは、小中高校どこでも見られる学力保証のされていない状況ですね。
「学力とはなにか」ということをなおざりにしてきたツケが出ているのかもしれませんね。

2008年7月7日
大学でのAO入試に廃止の動き

7月7日の日本経済新聞社会面に「AO入試、廃止の動き 大学生集めに有効だが…」という記事が出ていました。
九州大学法学部が2010年度にAO入試を廃止するほか、一橋大学も廃止ということです。
理由は『「基礎学力が足りず授業が分からない学生がいる」』ということだそうです。これを防ぐには、「AO入試」を廃止するか、「AO入試」でも学力試験をするかだとあります。
どちらにせよ、学力低下というより学習意欲の低下、知的好奇心の欠如、適切なる想像力の欠如などが大きいでしょうね。
これらが低下したことで「学力低下」が起こってきていると考えられます。「学習意欲の低下」は、テストのための学習を「学習」と思い込んでいるところから出てきているのでしょうね。そうでない育て方(人間になるための学習とか)をすれば、多くの場合、もっと勉強しますよ。
「知的好奇心の欠如」があるから、学習を「暗記」と心得て「暗記」することが目的となって「理解する」とかしないため、忘れるために「暗記」している状況ですね。十分に理解したことは非常に忘れにくいことを理解していない。理解すれば、学習に興味を持ちやすくなるのですがね。「適切な想像力の欠如」は日常生活においての弊害をもたらしてますね。
まあ、卒業認定、進級認定を適当にしてきたツケが出てきているのでしょうね。
一部のエリートさえしっかりすればと思っている輩がいるようですが、フィンランドやアイルランド、以前の日本は国民の平均的水準が高かった、あるいは、高い。そうだから世界に通用する国になっている、あるいは、通用していたのでしょう。
取り敢えずは、大学進学希望者は、どの入試方式であろうと大学入試センター試験を5教科7科目以上の受験と全ての受験科目で50%以上の得点を必須とすることからでも実行するべきですね。

2008年7月3日
地方の国立大学がさらに貧乏に?

7月3日の日本経済新聞社会面に「国立大運営費、学部ごと評価し交付金に差 文科省方針」という見出しの記事が出ていました。
国立大学運営費交付金ですが、私の感じで絶対額が少ないですね。土建より地域経済に貢献しているのにね。
国立大学の基礎的な経費(人件費や光熱費、学生への教育経費、研究費は激減でほとんどなし)を賄っているだけになってきていますね。研究成果は出にくいですね。研究成果で評価すると不利になります。そこで、地方大学や教育学部などには配慮とあるのですが、もともと貧乏状態にしておいて、財務省と文部科学省は『その水準を維持してやるから「配慮している」と思え』と思い上がっているのでは。
「研究」は目標設定ができないはずですね。技術開発では、まだ設定できる度合いが高いですが、そううまくいかないでしょうね。
日本は、少ない教育関係費でよく持ちこたえてきましたが、減額を続けるということは大学を単なる知識の切り売り機関にしてしまうと考えます。
科学研究費補助金の配分ですが、聞くところによると「無難な」題目や教員に集中する傾向があるとか。地方大学への配分も少なめのようです。企業からも少なめ。何もかも、少なめでは実績は上げにくいですね。
実績を上げた教員の多くは、有名大学に出て行ってしまうとか。
地方においても、高等教育を国民に提供するという役目を国は負っているはずです。そうできないのなら、ヨーロッパみたいに給付奨学金(授業料と生活費をまかなえる)を充実するべきですね。
日本は、金の切れ目が教育の切れ目になってしまっていると思います。
国民の教育水準を維持することは国の利益になります。受益者は国であり、国民全体なのです。国立大学運営費交付金をもっと、増やす必要があっても、減額する理由はないはずです。

2008年6月17日
学習時の問題集などの活用法について

6月16日の日本経済新聞教育面のコラム「挑む」で今回は次のような『問題集は学力向上手段=xと『深く理解する姿勢こそ』の見出しがありました。
受験勉強において、中学受験や高校受験では往々にして「入試に出るあらゆるパターンを練習して・・・」という指導方針の塾が多いとか。でも、それでは、大学入試には都合が悪い。なぜか、高校までの入試と違って幅広い範囲と観点から出題されていrからですね。
英語の題材は限りなくあるし、現代文のですね。古文でも。生物も。昆虫だけで数百万種ともいわれています。これらを網羅的に学習できるでしょうか。地歴等もしかりです。
「入試とは、自分の持てる知識を総動員して、未知の問題に対処していく力が試されるものだ。」とありました。俗に言う難関大学ほどこの傾向が強いですね。
だから、問題文が長いです。一問一答ではないですね。延々と読ませて、答えは論述。
これに対するには、問題集で問題を覚えるのではなく、問題の意味を深く理解するところから始めないとだめですね。そうすると出題形式が異なっていても、本質の部分で同じであれば問題が解ける訳です。
そのことに気がついていない受験生が多くいるように思うのですが、いかがでしょうか。単なる「暗記」ではPCなどに負けます。人間の人間たる所以は「好奇心」と「思考力」だと思います。
問題集では、深く理解することによって「思考力」が深まり、学力が向上するのではないでしょうか。

2008年5月2日
学びの形態、どのような方法がよいのでしょうか

5月2日に朝日新聞のサイトで『机はコの字、チョークなし教壇なし 進む「教室革命」』という記事を見つけました。
いろいろな意見があると思うのですが、この記事で紹介されている方法もその一つであると思います。
原理は、『佐藤学・東大教授(教育学)らが提唱する「学びの共同体」と呼ばれる取り組み』にあるというのです。「教え合い」とでもいうか、「競争原理主義者」が見たら気絶するかも。でも、広がっているところを見るとあの全国学力テストで結構よい成果を上げているのでしょう。実際、そうなると思います。
『千葉県八千代市立阿蘇中学校は昨年1月から、全学級で机をコの字形にした。多くの教科で1時間に1度は3〜4人組のグループ学習が入る。生徒同士の表情がよく見え、言葉も交わしやすい。教壇も無くした。教務主任の唐沢正美先生(51)は最初、おしゃべりが心配だった。ところが、今は「自信のない子も意見が出しやすいようだ。分からないところを聞き合う雰囲気が自然にできている」と感じている。』と取り入れた成果がありました。
本来、人間は「学ぶ」意欲を持っているのですね。それを順位付け等では一部を除いて失わさせているのが現状のようです。「競争」では、本来の学習の楽しさというのが抜けてしまうのです。それを補うのに「進路」を派手に持ち出しているのでは。
そうしないとすぐに「楽な」方向に向かってしまう現状があります。その点に気がついていない大人が多数いますね。
「順位至上主義」に付きもののこと、それは、犬には悪いですが「負け犬根性」ですね。一旦、順位がつくと次からは戦う前から諦めている。それも、完全な不戦敗ですね。後追いも仕掛けようとはしない状況が多いのでは。もう、勉強しても関係ないとばかりにね。勉強の意味が完全に失われているのです。
フィンランドはうまく乗り越え、イギリスは「競争原理」導入による学力低下を受けて「底上げ」に向かっているのです。日本の今の風潮は、イギリスの失敗した「競争原理至上主義」に向かおうとしている感じがします。
豊かになってくると、多くの国で「競争」では勉強しなくなるというのが普通のようです。

2008年4月30日
安全に対してというか、常識がないのでしょうか

4月28日に兵庫県の私立高校で「アーチェリーの矢、高1の頭に10cm刺さる」という事故が起こりましたね。それ以前にも、東京の方でしたか、砲丸投げ?ハンマー投げ?どっちだったか、グランドにいた他の生徒に当たるという事故が起きてました。
ただ、今回は部室で手入れ中ということなのですが、「人がいる方に向かって引かない(セットして持たない)」という原則が守られていなかったのでは。壁に向かっていれば事故は起こらなかった。矢の危険性を十分理解していなかったのでしょうね。
もう一つが「一橋大18歳新入生、寮で飲酒後死亡 急性中毒か」という記事です。こちらの急性アルコール中毒事故は時々、起こっていました。またか、という感じです。でも、医学部の新歓コンパであらかじめ医師に「新入生に酒を大量に飲ますのでもしもの時は・・・」と言って、医師から厳重注意されていた医学科生もいたいうことですから、俗に言う「文系」だからね。それでも、死なせてよいといういいわけにはなりません。
どれも、もう少し、安全についての意識があれば、防げていたと思われることです。
どうも、急性であったりして、重大な結果にすぐ繋がることに対してはそのことが起これば、皆用心するようです。
しかし、慢性であったり、要因が多数あって特定しにくいものには注意を払わない人が多すぎますね。それに、薬物中毒症状が加わると、全くその危険性を顧みなくなる人が多数います。
それは、喫煙であり、ある程度以上のお酒であったり、偏食であったり、といろいろあります。その中で世界中で「脱たばこ」の行動が起こっているのに先進国の中では日本は動きが鈍いですね。
これも、今回の事故の遠因と関係があるのでは。安全や健康に対する基本的態度の欠如ですね。

2008年4月26日
「また、来た道」?2回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)

4月22日に2回目の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)が実施されました。
結論を先にいうとテスト結果の利用のされ方が問題をはらんでいる。もともとの文部科学省の利用方法だけならよいのだが、以前の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と同様のことにしか執着していない面々が「順位」を声高に叫びだしていますね。
イギリスでは、大々的に競争原理を導入した教育改革を実施しました。結果は、一部上位層をのぞく大多数の学力低下に見舞われたようです。そして、底辺校や低学力児童生徒に対する対策を実施する羽目に。
アメリカもパッとしないですね。
フィンランドは、日本的競争原理とは無縁のようです。
現在の学力低下の大部分は「勉強の軽視」です。その典型例の一つが「試験に出ることだけを覚える」というものです。
活用できる知識というものは、生活体験を基礎に幅広い学習のもとに形成されます。そして、記憶も長続きしやすいです。それに対して、脈絡もなく単純に丸暗記したことは非常に忘れやすく活用もできないですね。
にもかかわらず、「順位」のみ気にしている。「井の中の蛙」状態であることに気がついていない。
前回の学力テストで西日本のどこかの県で、学校平均が90%を超えたところがあったとか。でも、その世代でそこから優秀な人材が多く出たわけでもなさそうです。
高校では、生徒の進路希望を無視するような指導をおこなったり、悪くいえば「だましたり」しているところもあるようです。昨年、発覚した私立大学のセンター利用試験の受験料を高校が負担した例が罪がないほうかもと思います。どうせ、大学側も辞退を見込んでいますからね。

2008年4月14日
公立高校の入試で「推薦入試」学力不足を懸念して廃止相次ぐ

長らく中断していましたが、ようやく再開できるようになりました。
4月13日の朝日新聞に「公立高、推薦入試の廃止相次ぐ 学力不足を不安視」という見出しの記事が出ていましたね。
どういうことなのでしょうか。「推薦」とは、進学先とか就職先などで活躍できるという前提では。まあ、「自己推薦」なるものをしている県もあるようなので一概に言えないですけどね。
ただ、今の多くの子供たちの考え方がネックになっているようです。なにかというと「勉強は最小限で楽したい」という考え方ですかな。
でも、このような考え方は誰からかというと、「大人」からですね。テストに出るところだけを勉強するすればという考え方。
そうすると、早期に合格になると、そのあと勉強がおろそかになる可能性が高いですね。実際、そうみたいです。
また、入試科目の関係から勉強する科目数が減る県もあるようです。ですから、中学校卒業後かできるだけ遅い時期の入試にまとめる方向みたいです。
中学校もその方が学習指導がしやすいというメリットがあるのです。
内申書重視の入試は、中学校3年間をすべて受験中にしてしまいました。
高校入試は、中学校卒業後に行い、学力テストのみのグループと内申書も考慮するグループの2つに分けて同時に実施するのがよいと考えるのですが、いかがでしょうか。
どちらの方式でも生徒によって、有利不利が出てくるので「平等」な方式というのはないと考えます。

2008年3月31日
数学を勉強しよう

3月31日日本経済新聞教育面に「『数学は言語力』視野に」という見出しの論説が出ていました。
新学習指導要領の数学に関してですね。学力低下が1990年から指摘されていたにもかかわらず間違った意味の「ゆとり教育」が行われて、現実問題として、OECDによるPISA調査で「読解力」の得点が国際平均そこそこだが、科学リテラシーや数学リテラシーが曲がりなりにも世界トップクラスであって、大きな違いがでてきた。
2006年の調査でも変わりは見られなかったが、大きく報道された。そして、一連の騒動が起こるわけですね。そうそう、全てで世界トップクラスのフィンランドの授業時間は世界的に見て、少ない方ですよ。
これの見出しに「数学を勉強しよう」と書きましたが、「論証問題を解こう」というほうがよいかもしれないですね。どうしてかというと、小中高校で「論証」を本格的にするには、数学が一番だからと考えるからです。
「論証」は他の教科でもできますが、本来生徒にとって取っつきやすいはずなのです。
それが、今は数学では「公式を覚えて計算する」だけとしか思っている人が多くなってしまったのでは。「別解」を示すと「一番楽に解ける方法を教えて」という要求が出されるとか。でも、考えずに「テクニック」にのみ走ると忘れやすいですね。
公式を導くことができるようになっておくと、公式を忘れても導けるし、使い方は忘れていないことが普通ですね。一見、手間が掛かるようですが、論証をきっちりすると記憶に残りやすく、応用も利きます。そして、このような能力は他の教科の学習にも役立つはずです。
「論証」できるためには、高い言語能力が必要になります。全ての物事は「言語」で考えているのが人間です。
だから、数学に限らず、全ての教科で必要となる「言語力」を高めることですね。その練習に数学の論証問題が最適ではと考えるのです。

2008年3月17日
犬山市の全国学力調査(学力テスト)不参加について

3月16日の朝日新聞のサイトで『学力テスト不参加、犬山市長「混乱に巻き込みたくない」』という見出しの記事を見つけました。
全国学力調査ですが、他紙でも最近取り上げられていました。保護者が学校順位を気にしているとか。
イギリスでは、テストの学校平均点で序列をつけて競争を取り入れてましたが、挫折したようですね。最近は学習の遅れている子に対して個別指導や補講を多くするとかの方向に転換しています。それは、「学力低下」が起こったためのようですね。一部上位層を除いて低下した模様です。
フィンランドでは、どうも「順位」という感覚がないようなのですね。授業時間は世界の中で少ない方ですね。フィンランドは。
「順位」と「学力」ですが、母集団によって乖離が出てきます。高等学校入試の内申書重視が間違っていたのは「母集団が異なれば学力も異なる」ということを無視した点にあります。それと、学校内の競争であるため、「皆でサボれば怖くない」や「記述式の解答をさせにくい。(結果として記号選択式に)」にせざるおえない。中学校内定期考査で単純丸暗記で対応できる問題の多用ですかな。そうそう、生徒一人の分校では、その生徒の評価はオール3(5段階)です。どれだけ、優秀でも、その逆でもです。ようやく最近配慮されているようです。母集団の能力の低いところほど有利ですね。
大学入試での「センター試験」の取り扱いもですね。京都大学理学部のような「資格試験」的扱いでよいものを他大学は「競争試験」用とした。その結果、国公立大学の序列が完成してしまった。
学力調査は現状を知るため、それを元にどう対策するかを考えるために利用するものだと考えます。
ところが、世間の関心の向いている方向を考えると犬山市の不参加は支持されるべきだと考えます。活用の仕方が間違っているのです。

2008年1月29日
子育てには経験者の助言もほしい

1月28日の日本経済新聞教育面の「数字は語る」に「育児不安、強いほど体罰」というのが出ていました。
これは全国私立保育園連盟の2005年の調査でこのような傾向が鮮明にでたというのです。
詳しくは全国私立保育園連盟のホームページで。
どうして、「育児不安」が大きくなるのでしょうか。人間の子育ては「学習」なのです。「本能」では母乳を与えるぐらいしかできないのです。
すると、その「学習」を何時するのでしょうか。以前は3世代の大家族であったり、子だくさんなので家庭内や近所で「育児」の疑似体験があったり、経験者の助言を得やすかったりと考えられます。
ところは、現代は核家族、少子化で近所に子供がいなかったり、「学習の軽視」で学校での「家庭科」の学習ができていなかったりと悪条件がそろっていますね。
そして、偏った情報の鵜呑みや「標準値」(最近はこういわないかな)への拘り、一面的な比較(「進んでいる」とか)に対して、熟慮できなくなって焦りが出ている場合も多いようです。そして、「体罰」へと走ってしまうのでしょう。さらに、人間は育てられたように育てる傾向が強いですね。虐待を受けた親は子供を虐待してしまう確立が高いというのです。
そこで、適切な助言者と関わりやすい体制、公的相談体制の充実させ、子育て中の家族の横のつながりを構築できるように支援する必要がありますね。公共事業の前にね。全国私立保育園連盟の調査では「育児不安」も少子化の原因の一つになっているとのことです。少子化対策では、「産休」「育休」の充実は当然ですが、「育児不安」対策にも目を向ける必要があります。

2008年1月21日
大学入試センター試験終わる。

1月19日20日と2日間にわたるセンター試験が昨日終わりましたね。今年も問題の内容はよいのですが、利用のされ方に問題がありますね。どうして、基準点方式にして、あとは各大学の個別試験で合否を判定する京都大学の理学部などの方式をとらないのでしょうか。
今の状況は、どの段階でも順位がものをいっていますね。だから、学力のレベルはどうでもよいとはいいませんが、何人を合格させるかにあわせて最低点が出てきますね。
福島県立会津大学ができた当初は、外国人教授が絶対評価をして、4分の1ほど留年がでて、問題になったようです。その時、外国人教授は「できない学生を留年させてなぜ悪い」のか理解できなかったといいます。日本人の教員もつられて絶対評価をしたのかな。
このおかげで、会津大学の就職は非常によいものですね。学部の関係でちょっとコンピューター関係に偏っているので解りにくいです。児童生徒学生を鍛えるには「絶対評価」をうまく活用する必要があると思います。
それには、センター試験の基準点化をまず実施すべきだと考えます。それが、高校教育にもよい影響を与えるのでは。但し、大学進学希望者は私学希望者を含めて、最低でも5教科7科目受験でしょうね。基準点方式なら年に2回とかしてもいいですね。
まあ、共通一次で国公立大学の序列化が進みましたからね。入試に使う共通テストで、自己採点でほぼその得点が判明しているので、模試から推定するより確実ですね。
センター試験の得点に大きな割合を与えて合否を判定しているところは一目瞭然で最低点とか分布を模試の業者が調べることができる状況であるということを理解しているのでしょうか。
基準点方式ならセンター試験の実施に対して、おおらかに対応することもできると思います。今年も各地で少しトラブルがあったようですが、ニュース沙汰にはなりにくくなるのでは。受験生もカリカリせずに対応できるお思います。でも、トラブルはない方がいいですね。

2008年1月15日
OECD試行の大学別学力調査に日本も参加方針

1月13日に朝日新聞のサイトでこのテーマの記事を見つけました。記事の見出しは「大学別学力調査、日本も参加方針 OECD試行」でした。
大学での学習の評価についてですが、技術者教育では日本技術者認定制度(http://www.jabee.org/)というの以前からあります。これは、世界に通用する技術者教育のレベルに達しているかどうかを申請のあった大学の教育課程などを審査して認定する制度です。これとは別にOECDが調査しようということです。
対象分野として『工学、経済学、自然科学のほか、「批判的思考力」といった専攻分野を超えて高等教育で身につけるべき能力』も含む方向のようです。単なる日本的学習ではなかなか身に付きにくい能力が含まれていますね。
「批判的思考力」とはどのようなものなのでしょうね。試行調査を行われることによって、具体的なイメージが得られるでしょう。日本で欠けているのは「批判的」なものも見方かも。「皇帝」か「否定」の両極端になるような発想法では「批判的思考力」というのは身に付きませんね。
「思考力」とか「想像力」とかは、「確かな基礎学力」が基礎として必要です。この「確かな基礎学力」とは「暗記」するだけでは身に付きません。択一式問題でも身に付きにくいです。論述式は大分有効でしょうが、他者に誤解なく意図を伝えることができる能力があってこそでしょうね。ところで、この文はどうかな。まだ、解りにくい部分、誤解されやすい部分があると思います。適切な助言をいただければと思います。
これを機会に日本の大学教育の底上げに繋がれば期待します。

2008年1月7日
情報を活用には「受け手も智恵が必要」

2008年1月6日付日本経済新聞「SUNDAY NIKKEI α」の健康面にある「健康情報 読み解く」というコラムで「受け手も智恵が必要」という見出しで東北大学公共政策大学院教授の坪野吉孝氏が書かれていました。
昨年の「あるある大辞典」での騒動ですね。その例から解説されています。捏造発覚の前の「納豆ダイエット」の件である記者が問い合わせてきたというのです。「納豆ダイエット」の信憑性についてですね。記者が疑問を持ったのは良いとは思うのですが、返事を「翌日」にといったということです。責任ある回答をするには1週間程度必要なことなので断ったということです。記者はどう考えていたのでしょうか。即答ができないこともあるというのに気がついていなかったのでしょうね。今は「即答」とか「即効性」をやたらと求めていますからね。その結果が、以前より悪くなったりしていることに気がついていないですね。
食生活と健康との関わりについては長期に渡る大規模な集団の追跡調査が欠かせないのです。それを少数で短期間で結果を求めようとするから「捏造」に走る原因にもなっているのでしょうか。
問題は受け手側も「即答」や「即効性」を求めすぎて、情報の信憑性を無視している、というか、信憑性を判断するために必要な「活用できる知識」や「智恵」を持っていないから「鵜呑み」してしまうのでしょうね。
これは、健康情報以外の情報でもよく見られることですね。「鵜呑み」にして「行動」する。調べようとしないのですね。
これは、日本人の国民性でしょうか。あの戦争に突入していった当時の軍部の上層部は当時の「エリート」ですね。ただ、自分らの記憶にあわない情報を無視していた。都合のよい情報のみ裏を取らずに取り込んでいたのですね。
情報を活用するためには「幅広い教養」が一番必要な基礎かもしれませんね。それも「活用できる智恵」ですね。
今、一番教育に欠けている点かもしれませんね。その結果、学習者は学習したことをよく忘れますね。

2008年1月5日
日本人にあるの?「サイエンスの心」

2008年1月7日新春特大号の日経ビジネスの有訓無訓に江崎玲於奈氏が「”サイエンスの心”が日本の限界打ち破る」という見出しでこの「サイエンスの心」について述べられています。
江崎氏のいう「サイエンスの心」とは「物事を論理的にとらえる思考力です。これは科学や技術に限った話ではなく、西洋の政治や経済、社会の隅々にまで多大な影響を及ぼしてきました。・・・」です。
「物事を論理的にとらえる思考力」ということですね。例として、太平洋戦争の時のことを取り上げられています。日本は「一億一心」とばかり、「勝利」のみを信じこんで)特に軍部)邁進した結果、負けましたね。しかし、西洋の二元論的思考では「勝ち」と「負け」の両方を想定し、勝つ方法だけではなく、時には「上手に負ける」ことも考えながら戦っていたというのです。
「物事を論理的にとらえる思考力」というのがなかったからということです。
物事の一面のみをみて、それを信じ込むというのが日本では幅をきかせていますね。「出る順・・・」とかいう参考書ですね。これが役に立つのはその分野全体が十分理解できてからだと思うのですが、「勉強は最小限」という意識の下では「出題されるのだけ覚えればよい」とばかり利用されているのでは。知識の細切れかが起こると理解できないし、忘れやすくなることに気がついていない。「学習」についての科学的考察のなさがなせる技ですね。まあ、「勉強とは暗記」という論理的考察のない思い込みがあるかぎり続きそうですね。
OECDの学力調査で世界トップクラスのフィンランドの授業時間数は世界的に見て少ない方でしょうね。日本と何が違うのでしょうか。この違いを理解するために必要なのが「物事を論理的にとらえる思考力」ですが、ちまたでは「授業時間数増」のみが声高に叫ばれてます。
帝国陸軍の中枢は「エリート」だったですね。それも海外の軍事情勢に「目を閉じていた」としか思えない行動をしています。「物事を論理的にとらえる思考力」を持ち合わせていなかったと見るべきでしょう。
「物事を論理的にとらえる思考力」を持っていないと、自らの行動で墓穴を掘ってしまうことが頻発することになると考えています。
企業経営だけではなく、いろいろな場面でいえることです。