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主に教育関係を集めました。新しいものが先頭になるように配置しています。
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2009年12月11日
文化水準が低いのかな。仕分け人。

 12月に入ってからも、事業仕分けの矛盾というのか、効率性一点張り亡者の仕分けの問題点が出てきていますね。まあ、どうして、来年度からマニフェストの全てを実行しようなどという大それたことをやろうとしているのかな。一部、先送りのようですが、もっと重点を絞ってもよいのでは。
 それで、弱いところを狙い撃ちしたような「事業仕分け」で芸術活動も「効率性」とかで効果がわからないので「減額」とかになっていたとか。子育てにおいて、そして、教育において、出来うる限り「一流」に触れさせることの大切さに気がついていないようですね。
 「学習」でも、一流と二流ではあとあと大きな差が出てきます。ようは、その後の成長ですね。兎に角「暗記」とかでの学習は伸びないというのか底が浅いですね。興味付けと思考、持続性を持たせるような方法は指導者が一流でないと出来ないですね。皆、自分の育ってきたときに接した方法が一番よいと思い込んでいますからね。
 調理師の味覚は「学習」そのものですね。一流の調理の味をまねることから始めるとか。音楽とかの芸術もね。そこには、「即効性」なないですね。大人が文化活動を楽しんでいるというのと、一流の芸術に接する機会がどれだけあったかということだけかな。残念ながら、今の日本では一部の親を除いて、そのような機会を子どもに提供していないですね。ですから、学校等での芸術鑑賞とかが重要になるのですが、予算が少ないため、場合によると二流でということも起こっています。その上、「減額」等では日本の将来の芸術活動が心配になります。日本を文化不毛の地にでもするつもりなのでしょうね。

2009年11月21日
経済協力開発機構(OECD)が大人の読解力・数学力・IT能力を調査へ

 11月18日にYahooのサイトで見つけた読売新聞の記事に「読解力・数学力・IT能力、大人の学力を国際調査」というのがありました。その後、各紙で報道されたようです。日本経済新聞にもでてました。詳しい内容は新聞で。
 世界の15歳を対象にした調査は「国際学習到達度調査(PISA)」というのがり、継続的にされていて、日本でもいろいろ論議を醸し出していますね。まあ、それの大人版かな。ただ、項目は表題にあるような3項目、大切な項目ですね。
 これだけでは不十分でしょうね。一般的な教養についても調べてほしいですね。例えば、文学部や法学部等の文系学部出身者の理数系の教養を、工学部や理学部等の理系学部出身者の人文系や社会科学系の教養をと思うのです。
 民主党政権下で始まった事業仕分けで出てくる結論には、はっきりいって「無知」によるとしか考えられない結論が随所にみられるのです。なにせ、文系学部出身で「理数系無知」を自慢するバカが、その逆で自慢するバカがはびこる日本です。それを打破するために、特に政治家、官僚、企業の経営者などの教養程度です。それが、歪であるために日本の教育まどが歪になっても、その歪さが理解できないのですね。そして、世界的な情勢もできない。韓国の躍進の理由などは理解できていないでしょうね。なぜ、サムスン電子に差をつけられたかとか、仁川空港が成功しつつあり理由などです。日本にもチャンスがあったのですが、それを潰したの他ならず、日本人です。今は、過去の遺産の上に成り立っている経済大国であるということが理解できていないみたいですね。この遺産を食いつぶしたとき、考えるだけでも怖い。

2009年11月7日
教育の目的

 相変わらず、教育については下火にならずに関心が持たれていますね。
 で、教育の一番の目的は何なのでしょうか。私は「人間になるため」であると考えます。ここには、俗に言う「評価」はなじみませんね。でも、非常に大事なことです。例えば、「子育て」ですが、チンパンジーでも他のメスが育てているところを観察できなければ出来ないとか。育児ノイローゼとかは多くが「見本」がないから。本とかではなく、実際の乳幼児の養育を間近でみたことがないというのが多いみたいです。経験者も核家族で身近にいないしね。その他、養育以外にも沢山ありますね。この中にはよりよい人間になるためもね。人間性とかですね。これも「教育」の果たす役割は大きいですね。
 大分離れての第二が「好奇心を持ち続けること」ができるというようなことでしょうか。これは、常に知的な新しい事象に関心を持ち続けることが出来るようにということです。「丸暗記」の勉強では出来ませんね。知的好奇心を持ち続けられるようにするには、幼児期からの家庭の雰囲気、親などの接し方が大切になります。テストなどで「点数」だけで、子どもを評価するような場合、知的好奇心をもって勉強している児童生徒の割合は低いですね。
 勉強は、「達成感」を味わうことができると、それを元にして、次に挑戦できるようになる場合が多いと思います。このことを利用したのが「百ます計算」でしょうね。計算は練習すれば、正確になり、また、速くなりますね。それを褒めることで意欲を引き出しているのだと思います。ですから、「百ます計算」だけしていても意味はないはずです。それは、この計算を始めた蔭山氏もいっていますよ。ところが、バカなマスコミは「百ます計算」だけを取り上げ、幻想を振りまきました。それに毒されての「百ます計算」は手抜きの計算術を使う場に成り下がったとか。
 現在、日本では全ての校種で「絶対評価」のはずですが、「相対評価」の方がはびこってますね。これでは、「教育」は競争のための道具に成り下がってしまっています。定期考査とかで、順位を出して、それで優秀とかいっていますが、なにがどうできるようになったかというのがないですね。そして、「皆でサボれば怖くない」いうのと「最小の勉強で、他人より少し上でよい。」ことで学力低下が起こっているのですね。定期考査などで平均点を気にするのは相対評価漬けになっている現れですね。何が出来るようになったのかではなく、点数のみ気にするので、学習したことをすぐ忘れるのでしょうね。そして、何とか記憶に残った知識もばらばらで連携されていないという状態にね。
 ある程度、絶対評価の出来る大学(東京大学や京都大学など)で留年みたいなことが増えてきている理由と考えています。
 日本を破滅させないためにも、「ゆとり教育」を攻撃する前に「教育とは何か」を真剣に考える必要があります。その時間稼ぎに間違った意味の「ゆとり教育」から決別する必要がありますね。

2009年10月28日
1人でじっくり考える習慣

 10月26日の日本経済新聞のサイトで「ノーベル賞南部氏、受賞後初の国内会見」という記事を見つけました。その中で南部陽一郎・米シカゴ大学名誉教授(88)が『「先生に教わるのではなく、1人でじっくり考える習慣が身についていたことがよかった」と振り返った。』というのです。
 「1人でじっくり考える習慣」という習慣が近年、軽視されてきているような感じがします。記事の中に『若い研究者について「日本も米国も優秀だが、情報過多でゆっくり考える余裕がない」と同情した。』というのもありました。この「情報過多」で考える余裕が、あるいは考えなくても「ネットで調べれば」とかいうような理由で考えなくなってきているように思われます。
 参考書とかで「よく出る順・・・」とかいうのがありますが、これ、自ら考えて頻出度を感じてというのではなく、あてがいですね。多くの場面で「考える」ということを放棄している者が増えてきているように思われます。
 「考える」ということは、訓練して鍛えていくことになると考えます。その第一歩が「考えながら記憶を思い出して書き留める」ということかもしれないですね。「考える」ということは適切な量の使える知識があって初めて出来るものだと思うのです。脳の中に整理されて出力回路と適切に繋がっている「記憶」というものが必要であり、これを使って、脳の中で試行錯誤を繰り返しながら、なんらかの言葉として出力されることだと考えます。
 ですから、「丸暗記」では「思考」の足しにはなりにくいでしょうね。そして、記憶とその言葉の意味するところが正確に結びつくことも少なくなるのではと思います。「考える」ということと「記憶」というのは切り離すことの出来ない両輪ですね。
 「三人寄れば文殊の知恵」という諺もありますが、「1人でじっくり考える習慣」というのも非常に価値のある重要な習慣だと考えます。

2009年10月16日
全国学力テストが抽出方式に

 10月14日の日本経済新聞夕刊社会面に全国学力テストを抽出方式に変えて実施する案が出てきており、来年度予算で抽出でというこで要求するということです。
 どっかの知事が成績開示を求めたりしていましたね。あれ、都道府県別も開示すべきではなかったと思います。教育の基本は競争ではないのです。教育の基本は「人間が人間になるため」です。人間は学習をして初めてよりよい人間になれるのです。
 教育の第一の目的は「人間になるため」で、第二の目的はないような気がします。では、なぜ、競争がというと豊かさを求めているのでしょうか。ところが、有名大学を卒業しているような夫婦でも「機能不全」の家庭生活を送っている場合もあるのです。その影響は子どもに伝わります。
 今、平均点開示とかを求めている人には、教育の第一の目的が抜け落ちているような気がします。結局は自分よりなにかで劣っているものと比べることで精神的安定を求めようとしているのでしょう。それを幾分でも和らげる効果が「抽出」方式にはあると思います。
 ですが、抽出は世論調査で使われるような抽出方法でね。さらに、抽出されたところはその学年、全員受験をね。高校では全員でない場合、実際その高校で高学力といわれるクラスだけを対象に選んでいたところがありましたよ。これでは、全体をみることができなくなりますね。
 その昔、某県で全国学力テストの時、成績不振者を欠席させたというのを聞いたことがあります。このようなことの防止策をとった上で、「抽出方式」にして、成績の開示をしないということが必要でしょうね。

2009年9月10日
教育への公的支出、OECD諸国で最低レベル

 9月8日のNHKニュースで日本の「教育への公的支出がOECD加盟国の中で最も低いレベルで、教育にかかる費用を各家庭が学費として負担する割合が、各国に比べて著しく高いことがわかりました。」というのがありました。
 この要因は、大きく考えるとふたつに分けられるのではと思います。ひとつが「受益者負担の原則」とかよくいいますね。その受益者をどう捉えるかということです。日本では教育を受けた個人と捉える向きがやたらと多いのでは。それが、大学等に対する助成の少なさや給付形式の奨学金が国としてはないということにも現れていますね。そして、フィンランドみたいな補習授業もないしです。個人の自己努力とでいうことでしょうか。その結果が親の負担額の多さに繋がっているのでしょう。較差の再生産の構図ですね。それと、予防接種の副作用に対する国家補償がなかなか始まりませんでしたね。漸く、何年か前から不十分ながら始まったと思います。これも、「受益者は接種した個人}という発想ですね。「集団免疫」という概念がまったく考えられていなかったからです。未接種の人への感染を低くする効果のあることが無視されていたのです。
 ふたつ目は先日書きました「事務次官等の会議」ですね。異議が出れば,閣議に上程しないという全会一致主義。これでは、予算とかもガチガチに硬直して必要なところにお金が回りませんね。それで、教育現場は小中高校・大学とかまですべてで「金欠」状態になってきているのです。外部資金も調達力に違いがあるので、「金欠大学」はさらに「金欠」が進むという悪循環です。「金欠」では研究はできません。特に理系学部は研究費が必要です。にも関わらず「経済財政諮問会議」のアホどもは成果主義とかほざいています。研究できない状態にしておいて、研究成果を出せとはどういうことでしょうね。例えば、商店で商品の仕入れ資金や店舗等の運営資金をゼロにしておいて、商品を仕入れて商売して多額の利益をすぐ上げろといっていると同じですからね。
 大学のことを書きましたが、小中高校も事情はよく似ています。
 最低レベルになっていった原因として、考えられるのでは思います。
 教育にはお金も必要です。本当にお金のない国の子どもたちは学校にも行けないです。働かなければならないからです。ですから、すべての経済的階層の子どもが能力に応じて教育を受けられるように税金を使ってください。

2009年8月5日
成績と親の年収、相関の傾向あり

 8月5日の報道で、文部科学が実施している全国学力調査の学力(正答率)と親の年収との関係についての調査結果が発表されたということです。
 「調査は、お茶の水女子大の耳塚寛明・副学長(教育社会学)の研究班が昨年度、約6千人の小学6年生について実施。保護者にも年収をたずねて相関関係を分析し、4日、結果を公表した。」ということです。
 お茶の水女子大の耳塚寛明・副学長(教育社会学)はこの方面で実績を上げている方なので、信頼性は高いと考えられます。このような調査は、いつ・どこで・だれが・なにを・どうのように調べ・どう解析したかが非常に重要になります。その点、文部科学省の全国学力テストをもとに、多人数でありということなどからも信頼性は高いと考えられます。
 親の年収が高いほど、普通は家庭の知的雰囲気が高くなりますね。親の年収が高いほど、親が引き続き「勉強」とか「読書」とかをしている場合が多いかも。
 そして、絵本などの購入量にも違いが出てきますね。さらに、絵本があれば、「読み聞かせ」の機会も多くなり、そのうち、絵のない本の読み聞かせにも進む可能性が高いですね。今、問題になっているのは「言葉」から「事象」が想像できないことでしょうか。絵のない本を読み聞かせるということは、その想像力を付けるためのよい練習になっている可能性が高いですね。兎に角、教科書とかに書いてあることと事象とかが結びつくかどうかが、学力に関係していると考えられます。これ、丸暗記では養成できませんからね。
 以前、日本経済新聞の「私の履歴書」でノーベル化学賞を受賞した野依良治氏が「男の子は父親の背中を見て育つ」と書かれていました。そう、子どもは身近な大人を見て育つのです。見本となるように意識して行動できる親かどうかも大きな要素でしょうね。

2009年7月30日
ベネッセ調査の時間の使い方で小中高校生の6割が「時間を無駄に使っている」と

 7月30日の日本経済新聞夕刊に『小中高生の6割「時間を無駄に使っている」 ベネッセ調査』という記事が出ていました。ベネッセはいろいろ面白い調査をしていて役にたちますね。
 この調査は「ベネッセ教育研究開発センターが昨年11月、全国の小学5年生〜高校2年生を対象に行い、8017人から回答を得た。」ということです。昔より今の方が子どもへの関わりがある意味、過剰になってきている面がありますからね。それで小学生の時には親などの指示に従って過ごすことが多くなっているのかも。塾や習い事などですね。「遊び」や「自学自習」が主ではなく、外部要因たる「塾」などが生活の中心にきているので、自身で時間の使い方を決めるということがないのかもしれませんね。
 その結果、時間をどのように配分すると自分にとってより効率的かを考える経験ができていないとではとありました。これは、いろいろな面でいつまでも「指示待ち」の傾向があることと無縁ではないでしょう。何人もといってよいくらい、少しは「指示待ち」の部分は持っています。その「指示待ち」の時間が長くなってしまっている子が多くなったということでしょうか。結局は自己をコントロールする鍛錬をさせてこなかったツケが出てきているのでしょうね。

2009年7月4日
記憶力を維持するには

 7月3日の日本経済新聞夕刊「らいふ」面の「こころの健康学」で記憶力維持について取り上げられていました。
 筆者(慶応義塾大学保健管理センター教授)が記憶力について考えていたら、「記憶力を維持するために役に立つ方法について研究した結果を報告した論文に目が留まった。」といことです。
 記憶力との関連で「運動」と「喫煙」がポイントだというのです。「運動をよくしている人、たばこを吸わない人、そうした人は高齢になっても記憶力が落ちにくいという。」といことです。
 脳の活性化には、「適度な運動」が欠かせないというのが常識ですね。「朝からあくび」の原因の一つに運動不足が挙げられています。でも、過剰な運動は逆効果だとか。脳が過興奮状態になってしまうとかです。適度な運動ですね。ところが、この頃は運動不足の大人が多い感じがします。
 「喫煙」ですね。これは、ニコチンによって血管が収縮して血流量が減少するので、脳によいわけがないですね。また、一酸化炭素でヘモグロビンが取られてしまうので酸素の運搬量が減少するので脳によいわけがないですね。血管を痛めつけることで「隠れ脳梗塞」とかが起こっていくので記憶力にはよくないですね。その程度で済めばよいのですが、「隠れ脳梗塞」の多発すると「脳血管性認知症」とはその他の障害が出てくる確率が非常に高くなるので記憶力減退がはっきり認識できるでしょうね。
 丸暗記は大抵の場合、意味はないですのですね。が、しかし、いろいろな思考や創造をおこなうためには理解の伴った適切な記憶力は必要です。その記憶力を維持するために「適度な運動」と「禁煙」と。

2009年6月10日
5月31日は「世界禁煙デー」その6 「どうして喫煙者が禁煙に失敗することが多いのか。」

 2008年5月19日に毎日新聞のサイトで「喫煙者:7割がニコチン依存症…4割自覚なし ネット調査」という見出しの記事が出ていました。
これは製薬会社のファイザーがおこなったアンケートです。
 アンケート対象のうち「世界保健機関(WHO)の疾病分類などを基に作成した診断テストでは、6656人(71%)がニコチン依存症に該当。」というのです。
ところが、ニコチン依存症と自覚があるのがそのうちの6割程度、医療機関での相談に至っては6%程度というのです。
薬物中毒の自覚がないのですから、禁煙に挑戦しても失敗する人が多いのも頷ける結果ですね。
ニコチン中毒がどのようなものなのか、どういう害があるのかを知ろうともしていない人が多いようですね。その結果が血管系疾患の多発になったりして、脳血管性認知症になっていく人が多いようですね。
 養老孟司氏の「バカの壁」にあった情報の拒絶による場合も多いでしょう。この情報の拒絶は喫煙以外でもよく見られます。そして、都合のよい解釈(間違った解釈)を繰り返していくのでしょうね。
 学校で「保健体育」という科目で「たばこの害」を教えながら、喫煙している教師はこの典型でしょうか。また、医療関係者の喫煙もね。
学校で物理を教えながら、自動車に乗ったときにシートベルトをしない教師もある意味、同類ですね。「情報の遮断」という意味でね。

2009年5月5日
「こどもの日」にちなんで「4月生まれが有利?」

 5月2日の日本経済新聞「プラス1」で「4月生まれが有利?」という意味の記事がありました。以前にもサッカーでしたか、社会面で取り上げられていたことがあります。
 今回もあるスポーツの正選手などのなっている人の誕生月を調べたら、4〜6月が一番多かったようです。学業についても調べたら、そのような傾向がとか。
 今の日本の人材評価の状況を考えれば、不思議なこともなく「当たり前」の現象だと思います。どうしてかというと、「生育状態を考慮した絶対評価」ではなく、「同一学齢年齢内の単純相対評価」であるからです。
 当然、4〜6月生まれは、1〜3月生まれより「生育期間が長い」ですね。小学校低学年においてこの差は大きいものと考えられます。そのあたりを考慮できる親などに育てられた場合は問題が発生しにくいですが、そうでない場合、「レッテル」を張られることにより「後回し」される傾向が強いのが日本ですね。最初の差がこのような差別によって助長されて育ってことになるからではと思います。
 月別の出生数には大きな違いはないのですから、育てられ方というか、無知による差別的な相対評価のなせる技でしょうね。

2009年4月29日
センター試験、科目選択をなくして全科目必修にせよ

 4月27日に日本経済新聞朝刊のコラム「領空侵犯」でニッセイ基礎研究所経済調査部長の櫨浩一氏が次のような寄稿をされていました。「センター試験、科目選択なくせ」と「高校の全必修科目から出題」という見出しで大学入試センター試験での科目選択をなくして、高校卒業時の学力確認用の試験にということです。
 選択科目にして、受験科目が少ない方が一見楽に感じますが、実際は狭い範囲からの出題で競争が熾烈になる傾向がありますね。そして、その競争も多くの大学では、些細な項目も含む出題を大局的に考えさせるのではなく、些細な項目を「覚えている」かどうかということに終始している場合が多いのでは。各科目とも大局的に考えさせる出題であれば、後々、役にたちますよ。日本生化学会の会誌にも「受験英語が役にたった」という寄稿があったし、三菱電機の何年か前の社長は理系の高校生に対して「歴史も勉強して」と言ったし、何年か前の週刊の経済雑誌に文系で高校時代、数学を勉強(受験するか同程度)している者とそうでない者を比べると数学を勉強した者の方の年収が後者より多いとありましたしね。
 その結果、受験勉強が後に役にたつことが少なくなってしまって「受験勉強は役にたたない」という誤解を生む原因になり、そして、より役立たない勉強法である「単純丸暗記」に偏ってしまう原因にもなっているのでしょう。
 現状は日頃の勉強をしっかりするだけで、結構名の通った大学に合格するようになってきています。原因は前に述べた「単純丸暗記」に多くの受験生が走っているからであり、教師や塾等も「単純丸暗記」の弊害に気がついていないかも。考えるより暗記の方が一見楽ですからね。人間とは「忘れる動物」であるということが忘れ去られています。考え抜くことによって記憶が定着しやすくなるのですが。
 それと、漢字検定での財団のボロもうけ現象は、大学入試などでの優遇措置があって受験生が増えたためですかな。これは、大学などが高校での教育を信用していないためとも考えられます。現状では、高校で厳密に卒業時の学力水準を維持させるというのは無理があると思うので、外部試験としての卒業認定試験が必要だと思います。そして、この卒業認定試験に合格できるのであれば、高校に通う必要はないかも。
 高校卒業程度の認定試験が制度化されるまでのつなぎとして「センター試験全科目の必修化」をする必要があり、センター試験の入試での利用形式は京都大学理学部のような基準点方式に限定するべきです。
 大学卒業認定試験も是非制度化するべきだと思います。

2009年4月27日
学力テスト結果の取り扱いについて

 4月26日に朝日新聞のサイトで23日付の『橋下知事「豊中市教委は関東軍」 学力テスト対応を批判』というのを見つけました。内容的には豊中市教育委員会が市町村別の結果を橋下知事に提供しないよう大阪府教育委員会に求めていることに対して「豊中市教委は関東軍」と言ったとかいうのです。
 全国一斉の学力テストですが、どうして全員なのという疑問もあります。昭和の学力テストでは児童生徒全員で行って、学校別まで公表していたのでしょうね。その結果、実施段階でいろいろな不正が行われるようになり、中止に追い込まれたと聞いています。なにせ、学校平均が90%以上とか。そこら中に、筑波大学付属駒場中学校や灘中学校、麻布中学校などが出現したらしいですね。これも、地域の事情などを考えずに平均点のみで比較したためです。普通の人はいざ知らず、行政の長たるものがこのような状況が起こりえることをするとはいう感じです。
 内申書重視の高校入試では、特定の中学校出身者の多くが成績で下3分の1以下になるとかいうところがあるそうです。それは教師が力量を発揮する前に生徒指導等で疲れ果てているとか。教師の問題ではなく、地域の問題なのですね。そのような地域へより多くの優秀な教員を法律で規定されているより多く赴任させるとかの対策のために行われるテストであり、いろいろなレベルの平均的生徒の理解度などを調べるものであって、学校間順位や市町村間順位を調べるものではないはずです。ですから、公表は必要ないと考えます。

2009年3月30日
国際科学五輪での上位入賞がない理由の一考察

 3月28日にYahooで見つけた時事通信の記事に「5科目とも上位10位に入らず=日本、国際科学五輪で」というのがありました。
 ノーベル賞受賞者を増やすこととともに、こちらも入賞者増を狙っているのに「惨敗」状態であるということですかな。
 記事によると「文部科学省が科学技術振興機構を通じて支援する科学オリンピックの第3回日本推進委員会が16日都内で開かれ、昨年は数学、物理、化学、生物学、情報の全5科目とも国際順位のトップ10に入らなかったと報告された。」ということなので、国が力を入れていると考えられるわけですね。
 では、「どうして?」ということでしょうね。まあ、今の教育の状況ですと、この状況は「当然」の一言で。
 このような国際大会に出場するような高校生は非常に少数なのですが、底が低いと参加生徒の力も多くの場合、低くなりがちでしょう。それは、受けてきた教育や親の考え方などが反映してくるからでは。
 教師の多くが共通一次世代やその後の選択科目世代が多くなってきていますね。それに入試科目減で自然科学が「大の苦手」でも小学校教員になれる。その逆も可。中学校教員のみならず、高校教員も自然科学全般に通じているような教員が減ってきているのでは。とすると、自然科学のおもしろさを伝えられなくなってきている。それに、「勉強とはテストで得点できればよい」という風潮。内申書重視から始まったのか、テストでの曖昧さの排除が推し進められているのが現状ですね。「曖昧さ」を排除するには「択一式」または「穴埋め」や「演習で使った問題集と同じ答え」に頼らざる得ないですね。
 そして、考えなくなって、学習への興味もわかなくなってという仲間が増えてきた結果、それに引きずられてしまうからでしょうね。

2009年3月12日
大学受験の出願ぐらい受験生本人にさせるべきでは

 3月7日に毎日新聞配信でYahooで見つけた『<都立小松川高>教員ミスで推薦願書出し忘れ 受験できず』や他にも教員が出願書類を預かって出願忘れはあったということですね。
 以前も大学入試センター試験出願でミスがあったりしました。どうして、推薦入試といえども学校長に出願書類の発送を押しつける大学が多いのでしょうか。指定校推薦でも大学が高校に確認をとれば、出願者は判るはずですね。高校生ぐらいになれば、特に何らかの障害がない限り、この程度の事務手続きをできるようになって当然では。
 センター試験も現役高校生も個人出願させては。大学などの受験の際に調査書が必要になるから、卒業見込み証明書とかはセンター試験の時にはいらないのでは。
 今は以前より「過保護」過ぎやしませんか。もっと独り立ちさせる訓練が必要ではと思います。成人として独り立ちすることは家族がばらばらになることではないはずです。それより、親離れ・子離れをできるだけ正常な状況でできる社会を作る必要があると考えます。
 そうでないと、「機能不全家族」だらけの国になってしまう恐れがあると思います。
 まあ、高校によっては「学校長がとりまとめて出願」とか書いてあっても一部だけ学校が手助けして生徒が出願しているところもあります。でも、今の大学入試センター試験の出願は学校出願せざるおえないようです。

2009年3月10日
勉強不足丸出しですかな。病気の高校生に警官が「おまえはタリバンか」と暴言 鳥取・米子

 3月7日の各新聞で報道されていたようです。共同通信配信記事の見出しは『「おまえはタリバンか」 病気の高校生に警官暴言 鳥取・米子』というものでした。
 「ポルフィリン症」という病気のために黒いずきんを被っていた高校生に警察官が「おまえはタリバンか」という発言をしたというのです。この発言が「ポルフィリン症」の患者さんがいないところなら「知らなかった」ということもあり得るか知りませんが、米子の高校生については全国放送の番組でも取り上げられているのです。全国放送なので他地域でも知っていてほしいですが。
 この番組より前にも屋外に出られない(紫外線による障害)病気のあることは知られてたはずです。紫外線から身を守る方法はいくつかありますが、その一つが全身を紫外線を通さない素材の布で覆うということです。そうしないと外出できないということになりますからね。
 どうも、専門外の教養的学習がおろそかにされている日本の教育の現状を示した一例と言えるでしょうね。幅広い教養の有効性について理解を深めてほしいですね。即効薬にはならないですが、大学入試センター試験の6教科7科目以上の受験を必須とし、50%以上で大学受験を認めるとかね。

2009年3月8日
学校は「中学丸刈り」時代錯誤の思い込みでかな。県弁護士会、人権侵害と廃止勧告 「伝統理由にならぬ」−−鹿児島・奄美

 3月7日にYahooで見つけた毎日新聞配信の記事に『<中学丸刈り>県弁護士会、人権侵害と廃止勧告 「伝統理由にならぬ」−−鹿児島・奄美』というのがありました。
 『鹿児島県・奄美群島の公立中学校で男子生徒に頭髪の丸刈りを強制する校則は「生徒の人権侵害」だとして、同県弁護士会(松下良成会長)は6日、廃止を求める勧告書を、県教育委員会と群島の11市町村教委に送った。・・・』というものです。
 率直な感想は「今頃、丸刈り信仰?」というのです。他の地域でも野球部など運動部では未だに「丸刈り信仰」がありますね。結局は本来するべきことへの意欲が十分あれば、頭髪などは良識的な範囲に収まります。そうならないのは「形」だけで順応しているからでは。
 教育的見地というより「管理」の発想でしょうね。私学との競争、公立高校同士の競争とか、競争にさらされているところは「管理」するためというより「魅力」に力点を置いた校則(頭髪や制服など)にしてきていますね。まあ、その制服でも生徒と教師との間で綱引きが繰り広げられたりしています。
 「子供の権利条約」などによる人権に対する意識の欠如を示すものとしての「丸刈り」と位置づけられます。
 日本における人権意識の低さの象徴として捉えてもよいのではと考えます。子どもは大人の付属物ではないのです。

2009年3月6日
基礎学力の低下について

 3月6日の日本経済新聞社会面に連載「知が危ない ー学びの今 D」で「若手の基礎学力低下」というのがでていました。この問題に対して、企業・大学とも支援に躍起になっているとか。
 例としていくつか出ていたのですが、その一つにT自動織機での例として、『大学院卒が8割を占める新入社員の「学力テスト」の結果に当時の執行役員は言葉を失った。高校卒の多いベテラン社員の正答率が低かった。』その学力テストの問題とは、「小学校6年から中学校1年レベル」だというのです。さらに今春の入社予定者まで順調に成績が少しずつ低下しているおまけ付きだというのです。
 「読み書きそろばん」といわれる「読解力、表現力、計算力」の低下が著しいということでしょうか。
 企業は新入社員教育で、大学は補習授業などで対応するところが増えてきています。その一例としてKITで有名?なK工業大学の取り組みが紹介されていました。ここの特徴は「受け身から自発的」への転換を援助している点でしょう。勉強なんて、興味関心と適切な基礎学力があれば「楽しい」ですからね。
 今の教育では、興味関心と適切な基礎学力の目を上手に摘み取ってくれてます。親とか塾とか学校とかでね。
 豊かになるとどこの国でも「勉強嫌い」が増えるようです。一部の例外的な子どもは「興味関心と適切な基礎学力」をもち、学校などお構いなしに楽しみながら勉強しているようですが、大多数は「義務意識」丸出しの勉強、勉強嫌い。この結果、考えることなく、かつ、反復練習もせず、かつ、暗記に頼った勉強になっているので身につかないのでしょうね。
 日本は根本的に教育についての考え方「露骨な競争原理と歪な平等主義」からの脱却が必要でしょうね。それと、評価についてですね。到達度評価に移行するべきでしょうね。そして、学習の遅れ気味な児童生徒への手厚い支援とね。遅れ気味な児童生徒への手厚い支援を行えば、上位者も伸びるはずです。サボれば抜かれますからね。今は落後してしまったら、ほったらかしと同じような扱いですので、上位者は楽できますから。「みんなでサボれば怖くない。」とね。

2009年2月18日
大学入試や企業の採用試験での資格重視の風潮の原因についての一考察

 2月9日ですか、文部科学省が財団法人日本漢字能力検定協会に対して立ち入り調査を実施しましたね。公益法人にあるまじき「金儲け」をしているとしてです。15日の日本テレビの「番記者」でも取り上げられていました。でも、ここまで各種の資格検定が盛んになってきた要因は多数あると考えますが、そのなかの一要因について考察してみたいですね。
 教育における「評価」の問題であると思います。「評価」の基準が曖昧であったり、現実に即していないことから起こっている部分が大きいと考えてます。
 小中高校と大学における進級および卒業認定ですね。大学に例をとると、どうして、高校の教育課程の補習を大学が、それも非常に多くの大学で実施する必要があるのでしょうか。日本でも以前はほとんどしていなかったことです。そして、大学の卒業認定や単位認定のレベルについて、信用していないから3年次の終わり当たりで採用内定を出す企業。その割には「卒業」に拘ってますね。あ、違った、「入学歴」だったかな。入試の難易度レベルで学力を判定していたのかな。そして、せめて「卒業」ぐらいしてほしいと。
 それでも、不安になってきて、人情のはいらない「外部団体による資格」というのに頼りだして、それを大学や企業が重視しているとなったので高校生や大学生が大挙して受験を始めたのでしょうね。まあ、「漢字検定・級」とか合格していたら、漢字をどの程度使えるか推定できますからね。英語の日本英語検定協会による検定、TOEIC、TOEFLなどの検定もそうですね。「・・卒」より信頼性が出てきているのかもしれないですね。
 「相対評価」による弊害でしょうか。どの時代にも、評価を気にせずに学習を行い、優秀な成果を上げる生徒・学生もいますが、多くは「皆でサボれば怖くない」に染まりやすい環境で育ち、勉強をしています。「相対評価」ですとこの「皆でサボれば怖くない」意識に陥りやすいようです。評価の多くの部分で「絶対評価」を採用し、学習者の学力の伸びがどのようなもであるのかがもっと具体的に判るようにし、ゆっくりと伸びている生徒らに対する補習授業等を充実させ、「学習は自分の成長に必要」という実感と努力による成果を感じさせるようなシステムにする必要があるのでは。
 漢字検定などにはこのような実感を検定受検者が感じていることも人気の一因かもしれないですね。

2009年1月25日
全国学力テストの上位県、秋田県のある村の教育

 次回は仕事の都合で1月31日になると思います。ご了承ください。
 1月24日の朝、NHK総合の6時台の番組で取り上げられていました。ある村だけでしたが、学力向上のためにはヒントにあると思いました。
 簡単に言うと「底上げ」と「興味付け」と「考える力」につきるのでは。一つは全員での調べ学習とその発表ですね。発表をするということで考えるということをすることになります。立ち読みでしたが、ある週刊誌に茂木氏の記憶についての記事がありました。記憶は「短期記憶」→「長期記憶」→「意味記憶」の順に忘れにくくなり、かつ、活用できるようになるとね。「短期記憶」から「長期記憶」へは「繰り返し練習」とかでもできるが「意味記憶」はその事柄について他の人に説明することなどが必要であると。「自分の考えを他の人に述べる」というのでも役にたつはず。「説明する」というのはやはり「考えてから」になるのが普通ですね。
 「意味記憶」が多くなれば、その分野に興味が持てるようになる確率が高くなり、興味を持てば「自発的学習」に繋がりますね。
 「底上げ」というのは、時間のやりくりや村の支援などでチームティーチングや補習講座です。数学では実際に2人で授業して進度のゆっくりしている生徒への手厚い支援をしているとか。
 この報道を見ていて思ったのは「フィンランドの教育」と似ていると。3つほどあげましたが「底上げ」が一番重要な要素でしょうね。アメリカは「落ちこぼれ防止法」で学校に競争原理を持ち込み、開校から上位校に生徒が集まって学力向上を図りましたが、実際は逆に「その場しのぎの得点競争」になり、落ちこぼれが倍増したとか。同様の取り組みをしていたイギリスは一足先に「底上げ」型に変更したとか。
 学校間とか市町村間とか都道府県間とかの平均点競争にとらわれると学力が低下しますよ。昭和の全国学力調査で実証されているのにね。日本はそこら中に「歴史を鏡」にできない人たちが充満しているみたいです。

2009年1月19日
センター試験終了

 2009年度大学入学試験のための大学入試センター試験が終わりました。受験生数から考えると「混乱なく」かな。
 試験問題の内容はよく練られています。毎度、毎度の提案ですが、「基準点方式」のみの使用にならないでしょうか。基礎学力判定用ですね。はっきりいって、今の教育はなぜか「暗記中心」みたいになっています。これは日本的風土の「暗記好き」からきているのと、「ゆとり教育」とか称して学習内容を減らしたため、高学年においても「暗記」だけで取り敢えず「対応」できるようになった相乗効果でしょうね。
 そこで、受験生全員に5教科7科目ないし6教科7科目の受験を必修にしてはどうでしょうか。そして、基準点以下はAO入試や推薦入試で合格していても入学を許可しないとかいうようにです。
 「ゆるゆるの高校教育」、「暗記のみの教育」から少しはまともな方に進むためには「外部認証」が必要だと考えます。そのよい機会が「大学卒業認定」と「大学入試」のタイミングだと思うのです。
 そうするためには、センター試験の受験機会を増やし、同一科目でも複数回の受験を認める必要もでてくると考えられます。年1回大学受験のときだけというのはきつすぎますから。一度、合格すれは「4年くらい」は有効とかね。
 大学入試センター試験を漢字検定や英語検定みたいにするべきですね。