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主に教育関係を集めました。新しいものが先頭になるように配置しています。
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2010年11月30日
新常用漢字が告示される

 11月30日に常用漢字が官報に告示されました。今回は「これまでの1945字から新たに196字を加える一方、あまり使われなくなった5字を削除し、あわせて2136字になります。」ということです。
 PC・携帯電話等の発達で扱える漢字数が増加しているのも背景にあるでしょうね。それと、制限しすぎていたという面も。なにせ、PCでは7000字以上、「超漢字」というソフトでは10万字以上かな。もっとも、普通の生身の人間では、7000でも覚えきれないかな。
 ただ、漢字の数が増加することはそれだけ、日本語表現の幅が広くなりますね。この程度の増加で「勉強する子どもが可愛そう」とかいうのは、日本語での表現力が元々ない人かもしれないですね。豊かな日本語にするには、漢字が必要です。これだけ、漢字にどっぷりと浸かりきってしまっている日本ですからね。カタカナ書きの外来語のわかりにくいこと。
 ただ、常用漢字は公的文書や新聞等で使用する漢字の目安になるのですね。「ふりがな」とか「脚注」などを加えることでもう少し多くの漢字を新聞等で使って欲しいですね。
 今回の告示には、もう一つのこと、「時代とともに言葉が変わる」というのも影響しているでしょうね。同じ単語に対しても年代やその他でその持つ意味合いに違いが見られますね。その違いが大きくなっていって「誤解」とかが生じる原因とかになるのでしょう。そして、「古文」というものにね。
 ですから、時代とともに見直されるべきものですからというのですが、「29年ぶり」というのは間が開きすぎかもと思ったります。いかがでしょうか。
 それと、「漢字の有り難みがわかる教育」でよい方法はないでしょうか。

2010年11月22日
「勉強が好きだった」のですね。ノーベル賞受賞の米パデュー大学特別教授の根岸英一さん。

 11月22日にノーベル賞受賞の米パデュー大学特別教授の根岸英一さんが卒業した神奈川県大和市の小中学校を訪ねたということです。
 そこでの講演で「勉強を好きになってください」といっていたと17時のNHKニュースで報道されていました。ノーベル賞受賞者の本質的な一面というような気がします。
 自らの知りたいことやわかるようになるために調べたり考えたりしてきたのですね。これを続けることができるのは「勉強が好き」ということにつきると思います。
 ノーベル賞として評価されるのは、よほどのことがない限り成果発表から30年前後になりますね。遅い場合は40年以上後かな。それでも、研究が続けられるのは「研究が好き」児童生徒の時ではその根本が「勉強が好き」ですかな。
 ところが、現在は絶対評価とかいいながら「相対評価」万能みたいな時代ですね。そこにあるのが「順位」であり、「平均点」であり、「偏差値」かな。これらを完全に否定する気はないのですが、児童生徒を個人としてみるのではなく、「これらの数値で見ている」というか「小さい単位での順位」とかで評価していませんか。
 そこにあるのは、見かけ上は「補習」とかしていますが、あくまでも「欠点防止」であって、「教科を好き」にしようとするものではないですね。確かに受験とかのときには「合格可能性」とかいうのを判断材料に使うのもよいかもしれませんね。それは、その個人の能力の一部しか表していないことを忘れ去っているような風潮を感じるのです。
 それで、「勉強は義務」というか「難行」みたいにしてしまっているのが、親であったり、教師であったりします。勉強好きの子どもに育てることができると、今は楽ですよ。ただ、子どもの性格によっては「修行」が好きなので「勉強」している子もいるので注意が必要です。
 「研究には正解は用意されていない」のです。今の大学生は「正解が与えられる」と思い込んでいるのが多いとか。これも、「勉強は義務」と感じているからでしょうね。この状態では、社会では通用しにくいですかな。

2010年11月2日
学力の高大連携

 11月1日の日本経済新聞教育面に学力問題、大学程度の教育に耐えうる学力をもつ学生の確保についてですかな。
 早い話が、学力低下で大学で中学程度からの補習を必要としているところもあるとか。大学での高校程度の補習の話はもっと以前からありました。
 どうして、このような事態を招いたのか。簡単に言うと「相対評価の乗っかった入試制度」に行き当たります。18歳年齢の人口が増加中で、且つ、大学志願率も上昇、さらに大学定員は増加しないという条件が満たされるときは相対評価で学力低下はおきにくいでしょうね。
 ところが、18歳人口は減少、大学の入学定員は難関大学から入試の楽な大学まで増えているとなると、実質的な競争は緩和されていますよ。志願率の増加で、模試等から算出する合格ラインのB判定偏差値の数値が下がらなかったので騙されていたのです。
 第一次ベビーブームの時(団塊の世代ですね。)の1年間の出生数は270万人ほど。今の18歳の生徒たちの時の出生数は130万人以下。団塊世代の半分以下ですよ。それが、団塊世代の時よりも広くなった大学入試にということです。団塊の世代の時は200万人以上が大学に進学していなのですね。
 それと、共通一次試験導入の時に今回、考えられているような基礎学力判定試験と位置づけることができる機会だったのに、合否判定に直接使用し、京都大学理学部みたいな利用をしなかった。これは、大学入試センター試験でも同様です。
 それと、高校入試における「内申書重視」で、この内申点は完全な相対評価が長年続きましたね。その結果の一つが中学校教育の崩壊かな。相対評価なで、良くない評価がほぼ確定した生徒らが居直ると・・・。そのほかにもありますよ。
 考えない丸暗記の学習が蔓延ってきたことで、この学習法でも得点できるような出題も蔓延したことかな。
 解消のためには、まず、大学入試センター試験を大学進学希望者に全員受験を義務づける。受験料は公費負担。大学側には京大理学部などが採用している「得点による足きり」のみに使用させる。合計得点を合否判定には使わせない。そして、その基準点を徐々に上げていくこと。
 大学の卒業時にも、公的な大学の基礎学力判定の認定試験みたいなのを公費負担で導入。これもレベルを徐々にね。どちらも、年に3〜4回実施することにし、マークシートのだけではなく、論述も入れて欲しいですね。
 表題は「学力の高大連携」としましたが、日本の学力は大学入試で確保されてきた期間が長かったのです。でも、今は入学願書を出すだけで合格するような大学も出てきています。大学入試に頼ることはできないのです。別の方法を考えましょう。

2010年10月31日
数学の有用性、幅広く勉強を

 10月30日のNIKKEIPLUS1の「エコノ探偵団」で最近、数学を勉強する人が増加しているというのです。
 新宿にある工学院大学の公開講座には社会人が多数参加しているということですし、他のところでも数学を勉強する人が増加中というのです。
 中学校や高校での数学の学習のやり直しもあるのですが、それとともに「数学することによる論理性の訓練」ということを目的に学習しているというのです。
 まあ、高校の学習では数学が一番論理性を磨くのに向いています。他の教科でも論理性を磨くことができないわけではないのですが、教科の性質でしょうね。
 「論理性」とかを磨いて、仕事に役立たせているのですね。ちょくちょく、経済雑誌でもこのことが取り上げられています。高校でしっかり数学を学習した者とそうでない者は大学卒業後の年収(40歳頃)で年間100万円ほど数学勉強組のほうが多いという記事を載せていました。
 ある経済雑誌で理系出身の社長が「歴史の勉強を」とかいうことを読んだことがあります。最近、よく健康食品などで問題になることがあるのですが、これも家庭科や生物・保健体育などの科目をしっかりと学習して活用できるようにしておけば、騙されたり、噂話でふらふらすることが減少するでしょうね。
 そのほかにも、例はあるのです。でも、今は「丸暗記」とそれによる「反復練習」することが蔓延っていますね。だから、「考える」ということを嫌っている高校生などがたくさんいます。親や周りの大人の影響かな。
 だから、「テストに出るから」という動機とか、取り敢えず留年を逃れる程度の勉強しかしない生徒が目立ちますね。自発的な学習習慣が本当に身についている生徒は少ないです。だから、学習してもすぐに忘れてしまうのですね。学習の目的や評価方法を考え直すべきですね。

2010年10月23日
学習でアホを造る日本の今の競争

 まず、どのようなことができるかとがあって、そのレベルに達した者での競争とかなら、効果があるのではと思います。ところが、今も日本は到達度関係なしの点数のみ。
 今の日本の教育で欠けているのは「到達度」でしょうね。「到達度」を常に考慮した教育をしていたら、また、保護者も「到達度」の意味を理解していたら、ここまで学力低下は起こらなかったでしょうね。
 日本の今の競争は「皆でサボれば怖くない」というのが実状でしょうね。ですから、高校の選抜学区が狭いところや東京都などで以前おこなわれて制度や総合選抜制のようなところでは、「取り敢えず公立高校に入学できる相対的な成績」で安住してしまった生徒や親が多かったのが、学力低下にも繋がっていたようですね。
 一部の良識のある親や教師は「序列」の前に「学習が好きであること」や「基礎学力を真に身につけているか」や「読解力」「思考力」「表現力」の大切さを子や生徒にわかるように、家庭で親自身が学習する雰囲気をつくったりとか、順位等で怒ったりしないように子の成長を見守るようにしている場合が多いですよ。
 内申書重視の高校入試開始以来、中学校では曖昧な採点が起こらないようにした節があります。それが、問題集そのまま出題や選択肢多用ですね。塾もそれに準拠したのか「これが出る」式のところが増えたみたいです。「出るところを教えて」という質問は「問題集の何番が出るのか」というと同じように思えるのです。これは、小中学校での訓練の賜ですね。
 そこに蔓延るのは「丸暗記」ですね。大学入試はここ20年間以上にわたって徐々に易しくなってきています。偏差値が上昇しているように見えるのは、志願者数が増加したためです。
 例えば、旧帝国大学や早稲田、慶応など関東の有力私大、同志社、立命館、関西、関西学院などの関西の有力私大は軒並み定員増ですよ。ところが、18歳人口は減少中。第一次ベビーブームの頃に比べたら、そらあ入りやすくなってますよ。それでも、難しく感じるのは「丸暗記」が増えたからですよ。覚えないよりはマシですが、という程度の勉強ですね。
 意味もわからず覚えるのは非効率そのものです。でも、考えるのを嫌いますから、読むのを嫌いますから、勉強は辛いでしょうね。そう、一部の生徒はどこ吹く風で優雅に勉強して、東大等に合格していきます。その層が科学オリンピックなどで好成績を収めているのです。高校の教師の学力ではついて行けない高学力の生徒ですね。その一部を除くと日本はお寒い状態です。
 入試制度や学力認定のあり方を根本的に見直す必要がありますよ。そうでないと、日本沈没ですよ。

2010年8月24日
「いいかげん」に潜む真理

 8月21日の日本経済新聞夕刊「こころ」面に大阪大学特任教授の柳田敏雄さんの生物の「いいかげん」さなどの話が出ていました。詳しくは新聞で。
 生物ですが、「生きる」ということに対しては結構厳密だと思うのです。三毛猫の柄ですが、クローンでも同じにならないとか。どうしてでしょうか。これは、毛の色の遺伝子がX染色体にあって、X染色体が2本必要です。ですから、ほとんどがメスですね。雄は突然変異体になるので珍しいことになるのです。
 雄は元々X染色体を1本しか持っていないので、それとバランスを取るためにメスでは、各細胞で2本あるなかのどちらか一方がアトランダム(いいかげんですね。)に不活性化されるので発生の時、一定にはならず柄がすべて異なることに。アメリカでクローンペットをつくっていた会社が営業を止める理由の1つだったらしいです。元のと柄が違うという苦情かな。
 ですから、一卵性双生児でもよくよく付き合えば、まあ、親は区別できるとかいうのはこのあたりのことですかな。
 脳の活動も「いいかげん」な面を持っていて、いろいろふらついている。寝ているときも起きているときも活動していて意識と無意識の間を行ったり来たりしているというのです。創造性も脳がふらついていていいかげんだから生まれるというのです。ふらつかずに特定の考えに固執したら、創造性がなくなるどころか「現実」の多様な現象も見えなくなりますね。それが、あの大戦の時に起こっていたのです。
 現在も「マニフェスト至上主義」という考えに固執している向きが「起訴される可能性がある人物」の某政党の代表戦に出馬を要請している感じです。国民新党もある考えに固執しているし、社民党もですね。
 結局は「一つのことに固執せずに世の中を楽しく見よう」ということが現状を打破する新しい考えが出てくる可能性がありますね。ところが、現在はどこもかしこもその集団なりの固執が跋扈している時代になってしまったと思います。それが、いじめを増やしたり、自殺を増やしたりなどの社会問題を増幅していると考えられます。
 「もっといいかんげんに」できるところは「いいかげん」に、そうしたらダメな部分はどのようなところかも考えてみて下さい。最低限、健康で生活するということには妥協をしないでください。この「いいかげん」というのは「脳の働き」に関してですよ。喫煙はダメですよ。

2010年8月4日
若い人たちへ「あきらめず、がんばれ」

 7月31日の日本経済新聞文化面の私の履歴書の見出しです。ノーベル化学賞を受賞された下村博士が7月分を執筆されてその最終回でした。
 日本での講演会に招かれ、講演後のパネル討論の場で若い参加者からの質問に「研究で成果が出ず、行き詰まったときはどうすればいいか」というのがあったというのです。
 その時に答えとして「がんばれ、がんばれ」だったというのですね。詳しくは新聞でね。博士自身、よく行き詰まったそうです。その時は「ただ、簡単にはあきらめない。うまくいかなかったら考え直して、別なやり方を試してみる。ダメだったらもう一度。それを何度も繰り返す。それだけだ。」というのです。
 今の日本では、「何度も繰り返す」ということが難しくなってきているのかもしれないですね。別の意味の「何度も繰り返す」というのは盛んですね。後のほうは「考えない」や「指示されたことだけ」ですかな。
 「考えない」ということが、「難しいテーマ」をしたがらないというのにも通じるし、世間が待てなくなってきていることも大きいですね。事業仕分けでは「即効性」や「話題性」が求められてきているようですから、地道な基礎研究というのは不利ですね。
 でも、下村博士のGFPはオワンクラゲの発光物質研究では副産物的でしたね。そして、この研究自体も研究しているときから生命科学での活用など考えていなかったと。単に発光現象の解明という好奇心が今日の成果をもたらしたわけですから、日本も下村博士がアメリカで出来たような「基礎科学研究」に多くの研究者が金銭的な心配をせずに打ち込める体制を作る必要があるのですが、今は「逆行」してますね。
 基礎科学分野の研究が崩壊の手前まで来ています。崩壊すれば、応用的分野の研究も崩壊、ひいては日本の崩壊に繋がることを国会議員は勉強して下さい。
 経済の分野でも、「法人税増税」と「雇用の拡大」をセットで唱えている政党がありますが、法人税負担などに耐えられなくなって、工場が海外に出て行っているのをご存じないみたいです。民主党も最低賃金引き上げね。賃金は高いほうがいいのですが、工場が閉鎖されて海外に移転したらどうします。そのあたりのバランス感覚がない方々が国会議員には多いですね。

2010年7月23日
博士の就職支援模索 大学や企業、仲介で実績、で、国は?

 7月19日の日本経済新聞科学技術面に表題のような見出しの記事が出ていました。
 日本では、大学院修了者の就職状況で、理工系の修士修了者については多くの分野で良好とか、大学卒より有利とかいわれていますね。でも、文系大学院や博士課程になると状況が一変するというような感じを持っていました。
 そこに1990年代の大学院大増設が行われて、博士課程院生が急増していったと状況のはずです。その時、博士課程修了後の就職先についての考慮がされてなかったとこの記事の中にありました。
 せめてもの救いがポスドク制度や博士課程の人件費に割り当てられていた雀の涙ほどの競争的資金を「事業仕分け」は削減を求めたというのです。これって、優秀な院生は海外に出て、日本に戻ってこなくてもいいですよというサインだと私は感じております。ばらまきに使うために、日本の強さの源泉の人材育成を放棄していこうというものですね。
 ですから、大学などの研究的資金など、無用と民主党は思っているのでしょうね。たびたび書いていますが、日本の研究的資金は非常に貧しいものがあります。東大や京大などで欧米の並大学並みで、その他は惨めなものであることを民主党は判っていない。その東大なども節約や研究時間を割いて雑務とかに教員を割り当てることでなんとか捻出している現状です。
 とすると、教員の就職口など運のよい一部の院生だけになりますね。企業のほうは昔から、修士主体かな。すると、ミスマッチで博士があぶれるということですかな。それを解消しようと民間やいくつかの大学が民間企業と博士の間を取り持とうということで活動しているという記事でした。
 「ばらまき財源」確保のために大学や小中高校、科学技術関係予算を削減するなら、日本を支える「強い人材」は出てこなくなるだろうし、でたとしても「海外」に出て行ってしまうことになると考えます。参議院で与党過半数割れは国民の怒りも含まれていることをお忘れなく。自由民主党は敵失による議席回復で比例区の得票を噛み締めて欲しいですね。民主党は国民新党が議席を確保できなかった意味、比例区でも確保できなかった意味も噛み締めて下さい。

2010年7月11日
なにを考えていたのかな。中学校は?

 7月9日のNHkニュースや各報道機関で兵庫県宝塚市の「少女2人 互いの家に放火を」のことが報道されていましたね。それでNHKニュースによると『少女2人が殺人や放火などの疑いで警察から事情を聴かれていることについて、2人が通う中学校が、宝塚市役所で記者会見を開きました。この中で、中学校の荻野勝彦校長は、1年半ほど前に、火の出た住宅に住む少女から家庭内で虐待を受けているという相談があり、学校が家族から話を聞いたところ、「しつけの一環だ」と話し、その後、少女からの相談はなかったということです。また、もう1人の少女は「成績のことで親から口うるさく注意される」と日常的に担任の教師に打ち明けていたということです。』というのです。「明るい生徒」だとも話しているとか。
 ところで、「虐待」ですが、よほどのことがない限り「親」は認めませんね。「躾の一環」だといいますよ。それを学校は鵜呑みにしていたのかな。調査は難しいですね。ですから、多数の子どもが虐待の犠牲になっているのです。親自身も同じような虐待を受けて育ってきている場合がほとんどかも。それが、虐待だと気がついていないのです。ですから、他者から「相談」とかという形でも指摘を受けると、より陰湿になっていくことが多いと思います。報道からだけで判断すると、「その後相談がなかった」ということは、親が圧力をかけたためとも考えられるのです。だから、相談できなくなったともね。
 学校は「不登校」についても長い間「甘え」と称して、無理に登校させようとして、悪化させてきた事例を多数つくっています。漸く、「甘え直し」をさせるほうがよいと気がつくまでに何年かかったことか。今回もこれと同類の対応をしてしまった感じが報道からだけですと受けます。学校も専門機関への相談をしてからにするべきだったと思います。
 もう一人の生徒についても「虐待」の一種ですよ。多くの場合、成長を手助けするのではなく、親の要求を押しつけるだけの「成績」での虐待ですかな。子どもは本来、成長しようとする力があるのですが、それを摘んで、親の要求を押しつける虐待になっているのがほとんどではと考えています。ですから、そのあたりを考慮すると、子どもの成績を俗にいう「上位」にもっていくのは結構たやすい面があります。親などにまともな心理学的知識のないための悲劇だと考えます。

2010年4月20日
第4回全国学力調査行われる。

 4月20日、全国学力調査が行われましたね。過去3回は小学校も中学校も全員参加が原則でしたが、今回は抽出方式になりましたね。どちらがよいかは一概に言えませんが、全員参加の時のように平均点競争などが起こるようでしたら、断然、抽出方式ですね。こちらの方がじっくりと学力の状況を調べることが出来るからです。
 でも、全員参加の県が13もあるというのが、そして、大都市部の参加率は低めなのに全国で70%ぐらいということのようですから、来年、参加率が上昇する可能性もあります。
 この調査で、問題点が明らかになった場合は、そのことについて人員などで配慮して、ほかと大きな差が出ないようにするということが第一だと考えます。次に、中学校卒業時の学力とは、高校卒業時は、そして、大学に必要な学力を考えるための基礎資料を集め、すべての児童生徒の学力を底上げするために使われるべきものであると考えるのです。
 ところが、日本はすぐに「順位」に目が行き、「井の中の蛙」みたいな状況でもそれに気がつかないようです。それと、教育や学術研究などは「効率化」ということにはなじまないのに、世間知らずが「2位ではダメなのか」とかいい、担当者が実質的な反論もしない国ですから、お先真っ暗かな。賢明な諸君は「海外」を目指しましょう。

2010年3月23日
無知による虐待の拡大

 3月21日にNHK教育のETVで再び、永山則夫について放送されていました。そこに見られるのは劣悪な環境で育つ子どもの問題ですね。親が意識的というと問題が含まれますが、虐待と認識している場合、あるいは躾と称しておこなわれる虐待などですね。ところが、永山則夫のことについて、ETVや虐待に関する本を読んでみると、母親の無知ということが虐待状態を拡大しているようにも感じ、当時の行政や常識が虐待状態を長期化させてしまっているところも感じられます。
 では、なにが無知状態を助長してるのでしょうか。一つが教育に係わる考え方かな。躾と虐待の違いはあるのか。あると思うのですが、多くの場合、混同されているのが実態でしょうね。そして、間違った考え方が今でも教育界にも温存されていることにも見られます。無知といえば、最近の過払い金返還訴訟で、依頼者の無知につけ込んだ事例がニュース等で放送されていました。これは、教育において「暗記」ばかりが重要視されてきた一例になると考えます。
 親が子どもに係わることの出来る時間が労働のために少なくなっていることも。これは、労働政策、産業政策の失敗とか、経営者の無知(女性の働きやすい企業の方が業績がよいことが非常に多いということですが。)とかで、子育てしやすい状況の方が経済によいというのにです。
 人間は、身近な経験をよりどころにしますね。これが、偏見を生む要因にあると考えられるのです。育児書を読んでも、適切に活用できないのですね。極端に走ってしまって、放任か過干渉などの虐待行為になってしまうということか。成績が悪いからという理由で普通の養育状態から逸脱するのも虐待にはいると考えられます。この「普通」ということばの持つ意味は「殴る、食事を与えない、無視する、などなどなど」とかのない状態ですよ。
 子どもの心理とは逆のイメージを勝手に抱いて躾をするというのも虐待にはいると考えられるのですが、無知によって、こどもの心理状態が読めないのですね。無知だから、子どもの知的状況が判らず、無理な躾による虐待も多発していますね。 

2010年3月11日
見える虐待、見えない虐待

 3月9日と重なりますが、「虐待」について考えるところを書きます。
 殴る、蹴る,食事を与えない、露骨に無視するなどは虐待であるということがわかりやすいですね。ここに書いたことはすべて躾とは相容れないです。さらに夫婦関係でも殴る蹴るがよく起こっているのが日本だと考えます。子に対する虐待だけではなく、DVにおいても警察の介入を必要としている場合がほとんどでしょうね。夫婦の問題というより加害者、被害者の関係ですね。「付きまとい」とか「メール等による威圧」などは見える方ですね。夫婦間などでは、殴る蹴るとかいうことがなしでも起こっていることがあります。このような場合、警察は介入できないでしょうね。
 それとよく似た状況が子どもでもというか、子どもの方が頻繁に起こりうるのです。露骨ではない無視、行動等に制限を与えるとかは虐待とは見えなくなってくることがありますが、状況をよく調べれば、虐待と判るはずです。成績が親の希望水準に達しないことで行動制限とかは「虐待」にあたると考えられます。このあたりになってくると多くの人は親子関係の一断面としか見ていないでしょうね。
 「親の思い通りにする」ということも虐待の一種だと考えられるのです。そこには、子どもの基本的人権はないからですね。このように考えると、子どもにとって、「安全な家族」というのはそう多くはないと思います。日本でいう「良好な親子関係」の基準におかしい部分が多くあるということです。それが、教育などにひずみをもたらして来ているのです。子どもは「順位」(一部分ということ)だけで見られたくないのに「順位」があたかも最大の基準であるように親に評価されるなどすることなどがこれに当たると考えられます。まずは「何はなくても愛される」ということが子どもに必要なのに、いつの間にか「順位」のみに関心が移ってしまっているのが日本ですかな。それを不自然と感じない大多数の大人がほとんどという悲しさですね。
 多くの動物では、親と子はどこかで親子分離をしますが、日本では不自然な「親子不分離」を起こすのが多いのはこの「見えない虐待」の結果でしょうね。
 虐待をもっと広く捉えましょう。そして、虐待の被害者を救う仕組みを。

2010年3月9日
虐待と躾の狭間

 3月7日の日本テレビ「真相報道 バンキシャ」で「一家でホームレス 止まらぬ"虐待"の連鎖」というのがありました。結局、子が虐待で死亡してしまうわけですが、その時の親の言い分が『「躾」のためにしている』ということですね。
 「躾」ですが、育ててきた経験からいいますと、叩く、罵倒する、食事を与えない、等々などおこなわなくても普通の大人に育っていきます。暴力的方法で育てるより良い大人にね。
 「叩く、罵倒する、食事を与えない、等々」をおこなうというのは、「虐待」そのものであると考えられるのです。子どもがそれなりに生活体験を積んでいけば、「穏やかに親が良い見本を見せつつ、諭せば」躾はできるのです。親が見本を上手く見せるというのは、よくいわれる「親の背中を見て育つ」というものです。
 それと、「家族」の見本は大抵、育てられた家庭しかないのです。そして、それを「よい家庭」と思い込んでいるというのも虐待の連鎖に繋がっていると考えられます。
 ですから、虐待の防止は「暴力的行為」があれば、警察権力を使ってでも介入するほかには、子どもを助ける方法はないと考えます。「親権」は虐待でない状態でのみ行使できるものとする必要があると考えます。虐待の中には「見えない虐待」という現象もあるといわれています。「親の期待で子を縛る」というのも虐待にはいると斉藤学氏が著書の中で述べられていました。それから考えると「成績不良に付・・・」とかいうものですね。暴力ではなく、何らかの罰を与えるというものです。
 もっと虐待の概念を拡大する必要があるのが日本です。欧米に比べて何周遅れているのか、想像がつかないです。これは、子どものみならず大人を含む「メンタルヘルス欠如社会」だからでしょうね。
 親が子どもに見本を見せるためには「時間的ゆとり」が持てるような賃金や労働時間が必要になるのですが、工場が海外との競争に疲れて、海外に出ていくような経済政策を続ける限り、そして、高付加価値で勝負できる企業の足を引っ張るような政策をしている限り(規制がこれに当たるかな。)厳しいでしょうね。もっと、国内で雇用が持続的に増加させるには製造業などの付加価値をつけた製品やサービスを海外にも輸出できるような産業ですね。
 それと、「よい親」になるためには学習が必要であるということで、学習機会を増やしたりして啓蒙することもね。このときですが、「学習」は強制されてするものではないということを、よりよい人間になるためにするものであるということを広げる必要が。ですから、学校での順位とかは止めるべきで、「到達度」とかに評価を変え、フィンランドみたいに理解の遅い子どもに手厚い補習とかを出来る体制も必要です。
 日本での虐待は「虐待の連鎖」が起こっているので減らすのは難しいかもしれないですが、子どもを助けるためには警察権力を使ってでもおこなう必要があるのではと思います。

2010年度の学力テスト実施について

 3月5日の日本経済新聞に次のような見出しの「学力テスト、抽出方式に変更でも小中学校の73%参加」の記事が出ていました。
 先の事業仕分け等を先取りする形で文部科学省が出してきた「全国学力テスト抽出方式」なのですが、参加希望が73%(2月末)になったというのです。参加率は100%の県から最低の25.4%の県までいろいろですが、高いという感じを受けます。
 前年全国トップだった秋田県は100%ということですし、過去の学力テストで異様に平均点が高かった県のある四国も高いし、九州も6県が100%とか。関西地区は平均的、関東が低め。参加率最低の県はあの犬山市のある県です。この格差はどこから来るのでしょうか。
 地方では、受けないだけで「風評」が立ってしまうのかな。学力というのは、学校と保護者と地域の連携によって向上していくものなのです。この3者のうち、学校と保護者という要素は比重が地域より少し高いかもしれません。ですから、学力テストの結果解釈には地域の状況、保護者の状況も考慮に入れる必要があります。
 教育委員会の中には、データの継続性というところに焦点を当てているところもあるようです。でも、抽出方式でも継続性とかはある程度、確保されるはずですし。全校で実施すれば、いろいろ判ることもあると思いますが・・・。
 この抽出方式にする理由の一つに「平均点公表」などの問題があったはずです。こちらは教育を「競争」としか捉えていない考え方に通じていく危険を含むと思います。それを避けるために「抽出」にしたとも思えるのです。それが、参加率100%などでは相変わらず「順位付け」のネタになってしまって、本質的検証や議論がされなくなる危険性が高いです。
 アメリカでブッシュ政権の時にですが、「落ちこぼれ防止法」とかをつくって、学校の平均点を公表し始めてから「留年」が増加したとか。教育の質が低下して、「点取り」に傾斜したためだといわれたりしてますし、イギリスでは平均点公表みたいなことは止めて、理解の遅い子のフォローアップなどに力を注いでいるとか。フィンランドもイギリスタイプですよ。それには、学校間競争など不要です。
 学力テストからは多くの有用なデータが得られるのですが、使い方を間違うと教育破壊の基にもなることを忘れないでほしいですね。

2010年2月25日
どのように取り扱うのかな。「東京都で日本史必修」

 2月25日に朝日新聞のサイトで見つけた記事に『都立高で日本史必修に 独自科目「江戸から東京へ」新設』というのがありました。国際化に対応して始めた「世界史必修」が惨めな状況になっていると思われます。その二の舞だけは避けてほしいですね。
 「世界史必修」では、理念より「消化」が先に立っていたり、「受験対策」のためであったりとかで、歴史的な背景や意義を深く考える授業がされにくくなってしまったようですね。取り敢えず、「教科書消化」または「受験対策」。それが、何年か前の「未履修」問題となって発覚しているのですね。今回の東京都の決定もこの延長線上の扱いを受ける可能性が高いと考えられます。
 その原因は、「受験勉強」と「教養勉強」を切り離して別物と考える風潮の強さですね。それが、入試にでるから「勉強する」、でないから「勉強しない」という本末転倒もいえる勉強スタイルになってしまっていると思います。
 この状況を打破しない限り、横浜市や東京都などの取り組みも「時間消化」のためだけの授業になって、「早く済ませて・・・」ということにね。そのためには、入試において、高校での履修科目の大多数を基準点方式で試験をするほかないのでは。競争試験では、「皆でサボれば怖くない」とか「他の受験生より少しよければよい」というようなことで、勉強の手抜きの度合いに探り合いが起こると思いますし、現に起こっているとも思われます。
 一般教養の大切さを十分に周知して、内容や評価をよほど工夫しないことには、現状の受験勉強に飲み込まれてしまって、思ったほどの効果が出ないと思います。
 下手な歴史学習は、偏狭な国粋主義者を生むだけです。太平洋戦争までの歴史教育がそれにあたると思います。日本の歴史のよい点は勿論ですが、避けてはならない部分もはっきりと触れて教える必要があります。

2010年2月21日
機能不全家族

 2月20日放送の報道特集NEXTで『心病む少女たちの「思春期精神科病棟」』というのがありました。そこに登場したのが親から無視や虐待(ことばによる虐待を含む。)を受けて傷ついた少女たちでした。また、周りから理解もされなかったという問題点も。
 「思春期の少女たちを専門に治療する病棟を備えた精神科病院」を開設した医師は儲けを度外視して運営しているということです。彼女たちの心を開き、彼女たちを愛する人(この場合、本来は親ですが)がおり、彼女たちの存在を必要している人(こちらも本来は親ですが)がいることを感じて貰うために苦悩しているというものです。
 登校拒否において、「甘え」といって無理矢理登校させようとする場合が多いのですが、大抵は「乳児期や幼児期で親に甘えることが出来なかった」結果で、幼児帰りをしているというようです。それを日本は長らく理解していなかった。リストカットもその家庭環境に問題があって、救いを求めているサインのはずが、理解している人が少ない。このようなことは、少女だけではなく、男でも起こっています。それが、DVなどの形でも表面化していると思います。
 機能不全家族ですが、目に見える虐待やはっきりことばでの虐待だけではなく、一見「普通の家族」でも起こりうるのです。あるカウンセリングの研修会で不登校の生徒とのカウンセリング例で、父親が欠席が多く、考査勉強が十分出来ない状態で受けた期末考査の結果を見て、「おまえより成績の悪いのがおるのか。」とビリでないことを言った冗談で生徒が救われたとか報告していました。この父親、自分の子どもを順番でしか見ていないのかという思いが起こりました。子どもにとっては「存在している」ことを親に認めてほしい、そして、「存在している」ことだけで愛してほしいと思っているのに、他者との比較でしか認められないというのは非常に悲しいことだと思います。「存在」していることだけで愛されるということで、必要とされているということも感じ取っているのではと思います。子どもの居場所が存在すということになると思います。
 このためには、親が子育てに時間を取れるように産休や育休を取りやすくする必要ですね。収入にも配慮した制度ですね。それと、普通は自分の育った家庭をよい家庭と思い込んでいます。その育てられ方がそのまま、自分の子を育てるときにでてくるのです。それが、世間でいう「虐待の再生産」とかになると考えられます。こちらの問題を解決するのは非常に難しいと思いますが、小中高校での教育、妊娠期からの啓蒙や母親教室、父親教室や子育て家庭の交流なども一つの方法になると思います。難しいですね。

2010年1月22日
大学入試センター試験について

 2010年大学入試用の大学入試センター試験の本番が16日17日の2日間で終わりましたね。あとは、追試とかを残すことになりました。
 22日には平均点も発表されて、科目間の得点調整を行わないことになったということです。
 共通一次試験を導入した目的の一つに「序列化阻止」があったような気がします。その目的は遂に達成することなく大学入試センター試験となって今日まで続いていますね。
 択一式試験にしては、良問は多いのですが、論述に比べると表現力とかの能力を調べるのには不適当ですかな。で、小論文と組み合わせている大学が多いですね。
 それより、「大学入試センター試験」の利用法としては京都大学理学部などが採用している基準点方式が一番だと思います。競争試験が一部の大学を除いて意味を失いつつあり、また、大学入学後学習動機づけとかを考えると基準を超えることが出来たかどうかで、まず、判断する習慣をつける必要があるのではと思います。
 このような利用法ができる可能性のあった試験なのに、得点を合否判定に利用して、統一テストでの序列化を進めてしまったと考えることが出来るのです。
 学力低下の原因にはいろいろな要因があると思いますが、大学入試センター試験の利用形態も原因の一つになっている可能性が大きいですね。選択肢があるので、答えを自らのことばで表現する必要がないので、学習が安易になってしまう可能性ですね。ある塾の調査でも、塾生をグループ分けして調べてみたら、事前学習が論述のグループが穴埋め、択一、○×グループよりどのタイプにおいても成績が良かったとか。でも、今は目先の試験タイプを想定した勉強しかしないのが増えているので、高めの基準点を示して学習させるほかないかもと考えます。
 現状では、ほとんどの大学で「大学入試センター試験」の利用の仕方が不適切だと思います。「大学入試センター試験」は基準点方式にして、論述式の個別試験をしてほしいですね。