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2011年12月17日
「やさしい虐待 〜良い子の異変の陰で〜」虐待について考えましょう

 2011年12月14日のNHKクローズアップ現代で「やさしい虐待 〜良い子の異変の陰で〜」という題の番組がありました。番組の冒頭での取り上げ方から日本評論社の「こころの科学セレクション」シリーズの中の「依存と虐待」斉藤 学 編集にあった「共依存と見えない虐待」に中に述べられている虐待と通じるものを感じました。この本は1999年12月に発売されています。漸く、NHKでも取り上げられるようになったという感じがしました。
 この件については以前にも触れていますが、今回、また書かさせて貰います。
 子どもは親から徐々に離れていく傾向があるのが普通です。そして、反抗期や何らかの事象のあるときに自立することになると思います。共依存状態ですと、親が子どもに干渉しすぎることになっていくようです。それは、躾であったり、学習面であったり、するというのです。一般的に言われている「虐待」は暴力や暴言で子どもを支配しようとして、身体を直接傷つけ、精神面(人格)も傷つけます。ところが、共依存的要素による「やさしい虐待」では、周りから見た場合、「躾」を優しい言葉で、「学習」については成績面ですが、「頑張れ」とかで一見「良好な親子関係」にも取れるようです。しかし、どちらの親の意向に従わせること、子どもに依存し、自らの安定を得るために子どもを利用してとも考えられます。
 ですから、躾が行き届き、学業成績もよい子がこの「やさしい虐待」の被害者になっている可能性が高いわけですね。世間的に「良好な親子関係」とみれますからね。「親の期待」を子どもに押しつけるのも「虐待」ではないのでとも思います。「家族会議」で子どもの進路を決めるというのも虐待に繋がる可能性が高いわけですね。大抵は、「親の意向」に従うことが多いようです。「家族会議」と銘打ってする前に「親子で相談」というのが普通あると思うのです。その時、「子どもの本心」からの希望とかが伝えられているからですね。まあ、軟弱な希望のこともありますが、中には「?」と思うような結果を聞いたこともありました。「見えない虐待」の可能性が。また、成績での縛りですね。これも「見えない虐待」の可能性が。
 子どもにとって、第二次世界大戦前の方が進路の選択肢が実質的に多かったのでは。戦後、多くの価値観が潰れて「偏差値」というものを「魔物」にしてしまったようです。また、内申書重視の高校入試で「校内順位」という魔物も作ってしまったのです。
 それによって、ほとんどの親が子どもに期待するのはどこも「高偏差値」「高内申点」と同じ目標になり、子どもを追い立てており、学校でも追い立てているのでは。そして、「子どもは親にそのままで愛されている」という当然の権利が無視されている家庭が増えてきたのでは。要は「子どもを順位や偏差値の善し悪しでしか評価できない親や教師」です。これは、ある時の「カウンセリング研究会」であったある高校からの報告を聞いたときにも感じました。ところが、報告者は気がついていないのですね。
 「子ども」は生まれたときから親の愛(成績とか関係なく)を受ける権利を持っていますが、それが十分ではなく、且つ、「親の意向」のみに従わせようとしていることが原因の一つと思うのですが、いかがでしょうか。

2011年11月5日
早生まれの子どもは様々な問題を起こしやすい?大人が原因では。

 2011年11月3日にinfoseekで見つけたロケットニュース24配信の記事に「早生まれの子どもは様々な問題に陥りやすいことが判明 / 成績不振、退学、タバコ・酒・麻薬、いじめなど」というのがありました。詳しくはネットで探してみてね。
 以前、日本経済新聞でスポーツ能力について同様な調査記事があり、その時は確か「サッカー」だと記憶しています。年代は小学生対象だったと思います。正選手に選ばれる割合は遅生まれのほうが、そのなかでも4〜6月生まれが多いというものでした。これは、小学校の学年単位で子どもを見ているためと思います。小学生での生活年齢1年のさは大きいですよ。
 過去に、朝日新聞の連載「いま、学校で」の中にあったのに、小学校新入生を生まれた月ごとに分けてクラス編成した例が出ていました。そして、1〜3月生まれのクラスは4〜6月生まれ主体より幼かったとね。これが、意味することは同じ尺度で評価してはいけないということですよ。
 それを、イギリスも同一学年で同じ尺度で小学校低学年から評価しているから起こったことでしょうね。
 子どもはだれもが「褒められる」ということで成長していくのではと思います。少なくとも、他人と比較されないでありのままを親が受け入れてくれるという状態が必要なのでは。親はまず、子どもがいるということを成績とか関係なく愛することが必要なのでは。
 低年齢の時から、同年代の他の子どもと比較されてきたら、よい気分はしないと思います。兄弟でも、親は比較しないというのが当たり前ですよ。子ども同士は勝手にわかってきますからね。
 このようなことで、劣等感を持ち始めたら、当然、成績不振、たばこ・酒やいじめなどに陥りやすくなりますよ。

2011年10月22日
数学・物理が得意だと高所得

 2011年10月20日にネットで見つけた時事通信配信の記事に『数学、物理得意だと高所得=「国語」と180万円差―大卒就業者1万人調査』というのがありました。調査は京都大学と同志社大学などの研究グループが20日に発表したというものです。
 対象者は「文系、理系を合わせた大卒就業者約1万人(平均年齢43歳)」というのですが、どこの大学の出身者?、対象を分散させたのかあるいは京都大学や同志社大学などに限定かな。普通にいわれている難易度がそろっている方がよいかも。例えば、京都大学限定とかですね。
 ところで、京都大学は理系の入試に「現代文」が2月25日の個別試験でもあります。普通にいうと、普通に使う「現代文」も理系受験者はある程度出来ないと合格しないですね。それも、京都大学レベルでね。文系では数学があります。そうすると、文理の違いで大きいのが理科や地歴ですね。そのかなでも「物理」は効いてきますよ。
 で、「理系の就業者約3200人では、理科4科目の中で物理が得意な人の所得が約681万円で最も高く、生物が得意な人が約549万円で最低だった。」というのも頷けるかも。物理が得意という人は普通「数学は得意」ですよ。数学が出来ないなら物理は無理ですからね。だから、生物得意は平均すると今回の調査では低いほうになるのでしょうね。
 「数学が得意な人と国語が得意な人とでは、約183万円の差があった。」というのはどこの部分でしょうね。「数学や物理が得意な人の所得が高いのは、論理的な思考能力が仕事の役に立っているだけでなく、理数が得意な人が減少傾向にある中、労働市場での評価が相対的に高まっている可能性がある。」ということですが、数学にしろ物理にしろ、我々、普通に日本で育った者は日本語で論理思考をしますからね。ただ、「現代文」の解釈等とは異なる部分も多いかもしれないですね。
 でも、結局はすべての科目を手を抜くことなく、楽しく勉強することが出来るかどうかが大切になるのではと考えます。「ゆとり教育」に代表される日本の教育の悪いところは「同一学年固定」の発想でしょうね。幼少期に奥手の子どもが積み残されたり、「神童」を潰してしまったり、順位競争で学習とは何かを忘れて、子どもを虐待しているのが今の日本ではないでしょうか。橋下知事などは文部科学省が学力テストで頑強に成績公表を拒んでいる理由を考えてほしいすね。前回昭和期の学力テストの失敗の理由をね。
 大学入試センター試験の自己採点の県平均点が低いとか喚いた知事がいましたね。なら、データを送らなければ、高得点になりますよ。

2011年9月4日
「体罰=愛」の誤解

 2011年9月3日の日本経済新聞夕刊「こころ」面に「児童虐待を生む土壌 川崎二三彦さんに聞く」という記事がありました。川崎二三彦さんは現在「子どもの虹情報研修センター研究部長をされているということです。
 記事の中の大きな見出しに『「体罰=愛」の誤解いつまで』と「子の行動、親は熟知を」というのがありました。「体罰は法則的にエスカレートせざるを得ない」というのです。民法にある親の子どもへの懲戒権ですね。これに体罰も含むという意見があるというのです。このようにいっている人は自身どうなのでしょうか。はじめは軽い体罰でも、普通はしてしまうと子どもは大きくなっていくので、次はより強くとエスカレートするというのです。まあ、全員が全員ではないですけどね。でも、多数がエスカレートしているというのが現状かも。
 躾とかからの体罰は、ほとんどは「子への無知」からきているとも思えるのです。「なつかない」→「殴る」というのはよく報道されているパターンです。また、例えば、食事の時の躾でも「早すぎる躾」を判っていないとかですね。子どもの成長と行動に対する無知状態ということです。親は子どもを熟知しなければならないのですが、基礎的教養がなければ難しいですね。今の教育のように順位とかのめり込んで、本来必要な教養が無視されている感じがするのです。授業があっても「授業した」というだけで「教養」になっていないのですね。
 体罰は虐待へと繋がります。そして、この「体罰」も「虐待」も「見えない」というタイプもあるのです。「見えない虐待」とかになりますと、子どもの親も気がついていないことが起こりうるのです。俗にいう「勉強」ですが、一見進んでしているようでも「見えない虐待」状態の場合はどこかで切れることがありますよ。大人になってからの「家庭内暴力」とかもね。DVとかいう形で問題が出てきたりします。問題が出てこない家庭が「理想的」とかいわれているのが現状でしょうか。親子とも気がついていない状態だけなのにです。
 これにあるのは、基礎力を十分につけてより発展的にではなく「取り敢えずその場しのぎ」になってしまうことが多いみたいですね。ですから、勉強時間の割に効果がなかったり、昨日も書きましたが、大学入試センター試験「生物」で考察問題を増やすと平均点が下がるような勉強になってしまうのですね。
 順位競争の見えない虐待に落ち込んでしまったら、子どもが家庭内暴力を起こしても親は気がつかないでしょうね。これは、世間一般がそうなってしまっている感じがします。あの大阪府知事の橋下氏などはその典型でしょうね。子どもそのものを親が受け入れなくなってしまうとも思うのです。子どもにとっては居場所がなくなるということになります。
 おかげさまで、世間に間違った子育て家庭が多かったようなので、家でゴタゴタいうことなく難関大学に進学してくれました。

2011年9月2日
教育には飛び級や待ちとかが必要なのでは

 2011年になっても、大阪府の橋下知事などの教育への話しぶりですと、同一学年での順位争いをさせるのを想定させるような言いぐさが耳につきます。
 そして、飛びや待ちとかが出来ない硬直した教育状態にしているのに気がつかないようですね。「飛び級」ではなく、「待ち」そう児童生徒の成長を手助けしながら待つわけですね。ところが、今の日本の教育への意識ですと「待つ」というのは「原級留置」も伴うこともありますし、そうでない場合は補習とかですね。これ、「平等」というをどう捉えるかです。待たないときは、判らなくても進級ですね。判らないから「丸暗記」とかになっていきますよ。それと、教育の意味の取り違えが深刻になっていきます。
 本来、子どもは勉強好きです。それを自発性のない義務感覚の受け身の教育にしていくのは、親や教師が子どもの成長ではなく、ただただ「順位」で見ているからでしょうね。ですから、「丸暗記」大好きが多くなってきているのでは。「丸暗記大好き」生徒とかには、覚えることだけで考えさせずに覚えさせ、トレーニングすると取り敢えずは覚えています。ですから、大学入試センター試験で考察問題とかを増やすと平均点が下がるのですね。考察問題は出題教科によっては作りにくいのがあるみたいですね。
 元々日本人は「覚える」というのが好きだったりしているのかな。「読書百遍」とかいう言葉もありますね。でも、以前は「遊び」が自然を相手であったり、多学年で構成されていたりでした。どちらも減ってますね。クラブ活動は多学年ですが、多くの場合は管理されていたりしてね。
 「飛び級」の方ですが、飛び級が出来るほどというのは「優秀」なのですが、単純な順位でのみの評価を続けていたらどうなるのでしょうか。親がしっかりしていないと「慢心」というのが起こりやすいですね。ですから、出来る子にとって「相対評価」は「皆でサボれば怖くない」の入り口になる恐れがあり、その時、たまたま順位が悪いのが続いた子にとっては,さらに順位の子、点数の悪い子があれば、「ラッキー」になってしまうようです。勉強内容も発展性のない記憶中心に向かってしまう恐れが多いですね。
 教育とは、子どもがどう成長したかであって、何番になったかではないのです。何番とかは「入試」の本番だけでいいのでは。それも、出来るだけ「アバウト」な判定で、入学後、勉強させて卒業基準を守って貰う方がよいのでは。そして、何浪しようがいいではないですか。どれだけ、「飛ぼう」がいいではないですか。そうすれは、今よりは「勉強」に向かってくれるのではと期待しています。
 私の家庭では「何番?」とかいうのは、塾通いの時でもほとんど出ませんでしたね。大学入試の時もね。俗にいう「難関大学」に進学してくれました。「勉強しろ」といったこともほとんどありません。親が見本をみせればよいのですし、幼児期とかには本読みとかの遊びのお相手はしました。俗にいう早期教育はしていません。「勉強は楽しい」を実感させるのいいですし、順位競争を親とかがけしかけると「勉強は義務」になりますよ。

2011年8月27日
教育が悪いのかな、この頃の議員には勉強不足のが目立ちますね。

 2011年8月27日に民主党の代表選挙の告示がされて、国会議員だけによる選挙がおこなわれますね。
 この頃の議員と書きましたが、この頃の教育はひょっとして大学でも「正解」なるものを教員が学生に提示しているのかな。だから、そうでない活動がある程度有名になるとどこかの報道機関が取り上げるのかもしれないですね。
 高校まではともかく、「正解」が与えられるのですね。正解を提示しないような実験とかは文句が他の教員から出たりしてますよ。自然現象でも経済などを含む社会的活動で正解はたれかによって用意されているのでしょうか。結局は、自身でデータとかを集め、解析し、過去を学んで考えたことなどを含めて総合的に判断するものですね。そこには、与えられる「正解」などないのです。
 それを出来ないなから、領袖の意向をそのまま鵜呑みにしてしてしまっているとしか思えない議員が多いと感じています。そうすると、そこにあるのは日本の置かれている現状への認識では領袖の意向に従うかな。例えば、「マニフェストの完全実行」は国債増発なくしては出来ないことが明白になっているにも係わらず、それに従おうというのも考えていない証拠になるのでは。
 アメリカでは、茶会党の支持によって当選した共和党議員などもこれに入るかも。結局あの騒動(国債の発行限度法案)でいろいろなのが暴落しましたね。金は高騰しましたね。アメリカの民主党支持者より共和党支持者の方が資産を目減りさせたのではとも思っています。なにが原因でとかを考えずに「今」の税金を増やしたくないという単純な動機に資産目減りかな。
 あの独立戦争の時も結局はアメリカの政権は「増税」でボストン茶会事件の目的がうやむやになったとか。そういえば、クリントン政権の時でしたか、共和党の反対で歳入欠損が生じるというので官庁を閉めたことがありましたね。世論は共和党に批判的だったと聞いています。オバマ大統領も度胸を決めればよかったのにと思います。結局は資産目減りは共和党支持者の方が多いと推定されるのにという感じです。
 「正解」を考えて自分で導き出すのではないというのは、今の教育の基本かな。まあ、大学入試センター試験などでは、教科書にそのまま出ていないことを活用して考えさせる問題を作ろうと苦労している科目もありますが、すぐに「範囲外」とか喚くアホがいるもので出来ないみたいです。
 意味の考えずに「暗記勉強」の訓練を12〜16年されてきたら、そら、考えることは出来なくなるでしょうね。ネタは、どこかで考え始めたことでも、それを発展させたり、改良したりするのが得意というのですね。これは、企業では絶対あってよいものだと思います。それに時々、自前があればということです。しかし、今の政治にはこの発展とか改良とがなく、凝り固まっているところに問題があると思います。皆さん、構造改革をしない政党には投票しないようにね。特に後戻りを標榜しているようなところにはね。それと、国債などの減額の見込みがないのに減税とかいっている政党にもね。
 政治主導ではないから、一律政策的経費削減などが出てくるのです。これも国会議員の勉強不足とそれに起因する見通しのなさかな。「丸暗記」勉強では無理もないことかな。

2011年3月22日
どうして、危険性の認識ができないのか

 3月22日現在で東京電力福島第一原子力発電所はまだ安定的に核燃料を冷却できる状態ではないようですね。そして、自衛隊、東京消防庁、東京電力や関係会社の隊員、現場社員が奮闘しています。
 ここでは、津波に対する認識の甘さですね。そして、この大地震のあとで、緊急地震警報が乱発気味みたいな感じで「オオカミ少年」みたいに思う人が増えてきてると報道が伝えていました。
 この2者ですが、同根ではないかと考えられます。具体的な危険状態になって、初めて危険性が理解できるというものです。ようは、災害が起こって気がつくというものですね。これは、他にも多数見られます。
 今、書いたのは地震関係でしたが、習慣性毒物(ニコチン)のでる嗜好物になると、さらに話が難しくなります。そして、放射線や放射性物質については、まともな「知識」がない上に話をよく聞かないために過剰反応をしてしまうというものです。
 原子力発電所の想定津波は5mだったというのですね。これ、高潮程度では。前にも書きましたが、スマトラ沖の地震では10mを越えていましたね。結びつかなかったのですね。目の前のプレートの境界面にも。これは、バラバラみたいな情報から関連性とかを導きなせないのですかな。
 それは、ニコチンや有害物質を出している喫煙行為でもですね。こちらは、自己の行為の「美化」(ニコチンによる)がつきますけどね。緊急地震警報に関しては、外れだけの印象が残る人が多いのでしょうね。ですから、数年前のチリからの津波の時、もっと大きな津波がきていれば対策が違っていたとも思います。あれで、甘く見た人も結構いたのでしょうね。
 これらの要因の一つに教育の問題があると考えます。なぜか?例えば、一問一答シリーズを主に愛用している生徒がいるようです。上手に使えば、役にたつものをそうでない使い方をしているようです。これは、項目間の関連性とかを見落としやすいですね。実際、「暗記」に頼れば、取り敢えず得点できる問題が出題されてばかりということもあるかもしれないですね。
 いくつかの要因が関係してくると考えることができなくなるのでしょうね。そして、その要因、例えば津波の高さとかは震源からの距離、地震の大きさ、地形とかで違ってくるのが理解できなくなるのかな。ですから、大学入試センター試験の問題は択一式ですが、その教科科目の内容を上手く使って「思考」させるようにしているので「センター対策」なるのが流行るのですね。「長文読解ができて論述」できればできるのにです。
 緊急地震警報のように外れが重なると記憶がそれに固定される人が多いのもこのような傾向を助長している教育に問題があると思います。それは、考えさせるとかではなく「順位」とかが出ればよいという問題で「順位」と「平均点」などで人を評価してしまう風潮、その弊害に気がつかない親や教師が延々と日本にいたからでしょうね。

2011年3月4日
京都大学などでのカンニング事件

 3月4日にYahooで見つけた記事にフジテレビ系配信の『入試問題ネット投稿事件 逮捕の予備校生「またの間に携帯電話を隠して手で入力」』というのを見つけました。この記事の分は英語です。
 本来は「カンニングしない」というのが原則であり、守って貰いたい原則ですね。ただ、ちょいちょいこれを破るのがいるので「試験監督」というのがでてくるのです。ですから、試験をする方はできるだけカンニングのしにくい問題にする必要もあるのですが、現実はそこまでの考慮はされていないですかな。実質的には多数の資料による長文読解で、長文の論述をさせるとカンニングはしにくくなります。
 今回のは、これ、試験監督に問題もあったのではという気がします。まあ、携帯は片手で使うのが普通の人もいるのですが、PCのキーボードのブラインドタッチの人よりは入力に時間がかかるのではと思います。そして、投稿後の回答待ちの間もちょいちょい見ているのでは。そして、書き写すときの見ているわけですね。そうすると、本来机の上にある視線が極端にからだよりになっているのに気がつくはずです。
 本来向くべき視線と違う視線になっていたら、短時間でも疑うべきですね。その後、しばらく注視、そして、背後とか近寄っての確認とかすれば、4大学で京都大学では英語と数学2科目ですね。これだけ、連続して成功するわけはないと思うのです。試験監督が複数で監督しているから「カンニングなんかない」と思い込んでいたのかもしれないですね。教室が大きいと相当な人数にしないと死角が出てきますよ。
 これは、日本的とみれる面もありますよ。現状をよしとして、現実を直視しない性格。あ、これは諸外国でも結構あるかも。ですから、政権与党という現状のみを見て、日本の将来を切り開くべき責任もあるというのを忘れている議員の多い現実かな。まあ、アメリカでも共和党がこれに近いタイプかな。ところが、日本はすべての政党といっていいぐらい政権の座につくと現実が見えなくなる見たいです。
 大学入試で「カンニング」騒ぎが長年、なかったか、あるいは、公にされてなかったかで、入試では「カンニングなし」と思い込んでいた節が大きいと思います。
 ですから、他の受験生がいろいろな大学でカンニングしている可能性は結構あると思います。 

2011年2月28日
入試問題は長文読解で解答は論述にしよう

 2月25日26日の京都大学入試で試験中と見られる時間帯にYahoo知恵袋に書き込みがあり、すぐ、解答も寄せられていたというのです。そして、他に同志社大学、立教大学、早稲田大学でも同じIDでの同様の書き込みがあったとか。
 まあ、今のような「ゆとり教育」レベルですと、そして、読み解かせとかしても少しでも教科書の範囲から外れると「苦情」が出るような時代では、カンニングも簡単ですかな。数学が対象になっていましたけど、試験会場の広さはどうだったのでしょうか。文系というので理系より数学は易しいですよね。すると、写メしやすいのかな。
 今回の場合は「被害届」を出すと言うことですから、警察が捜査に乗り出し、当然、Yahooや携帯電話会社も協力するでしょうね。でも、法制上は「令状」が必要でしょうが、裁判所は令状を出すでしょうね。
 今後のことを考えると、もっとアバウトな入試制度と卒業認定を厳しくすることでしょうかな。大学では「口頭論述」などを多用すれば、コピペは減少するでしょうし、携帯使用のカンニングなんてできませんからね。それでも、カンニングするのは出てくると思います。
 その対策として、数学でも「長文読解」と今まで以上の「長文論述」の多用する必要が。そして、試験会場をシールドして、携帯の電波が漏れないようにするぐらいが必要になるかも。
 でも、今回、携帯が試験場で使用されたということは、他の方法のカンニングもできる可能性が高いということですね。でも、そこに長文資料を与えて、読解させ、熟慮の後、長文の論述させるという方法ぐらいしか方法はないのではとも思います。
 一問一答みたいなパターンでの勉強では無理な方法ですかな、まあ、京都大学は全国的に見て「長文読解」と「論述」を多用している大学ですね。だから、これに対応できない受験生がカンニング方法として考えたことかもしれないです。
 多くの児童生徒学生が「生涯に渡って役にたつ勉強」という意味が感じなくなってきたために引き起こされた事件でしょうか。いつまでもこのようなことをできるとでも思っているからなのでしょうね。出題する方は大変だと思いますけど、いくつかの文献からの組み合わせによる長文読解とそれで思考させた後の長文論述の試験をしてほしいです。

2011年2月26日
情報を幅広く調べ、深く理解し、有益に活用しょう

 2月26日にinfoseekで『就活学生 面接で「御社の○○が好き」と言うと無知がバレる (NEWSポストセブン)』というのを見つけました。SAPIO3月9日号の記事のようです。
 就活面接で無知をひけらかせるような言い方に「御社の○○が好き」というのがあるというのです。某総合電気メーカー希望の学生に著者が訪ねたところ、「液晶テレビの○○○が好きだから」 といったとか。この某総合電機メーカーは社会インフラとかに注力中で液晶テレビもしていますが、学生は主力を知らなかったということかな。
 就活では、企業研究というのが大切というのですが、表面的ではない研究が必要として、某携帯電話会社に就職した人は大学図書館でその企業の記事を一面記事からベタ記事(専有面積の小さい見出しの小さいさりげない記事)まで丹念に読んだとか。根気が入りますね。
 ところで、就活を例にしましたが、今の児童生徒学生は「コピペ」世代の本領発揮の者が多数いるようですね。この根本は「楽して・・・したい」、だから、企業研究では目立つものだけでも情報を得るとそれで満足して、その後ろにある大きな広がりには全く注意をはらわないのでしょうね。
 この著者は、新聞を丹念に毎日、読むより、雑誌を薦めていますが、それでも、半年は続ける必要があると言っています。就活で大企業の内定を複数勝ち取る者と何十社受けても全滅する者の違いがこのようなところにあるのでは言っています。
 如何に地道に学習をすることの大切さ、幅広く情報を調べ、取捨選択をする能力をつける必要性ですかな。その一番の基礎が児童生徒学生時代の幅広い学習によるものなどですね。今回は就活という面の記事を参考にしましたが、健康とかですと理科と保健体育と家庭科が最低必要になりますね。歴史を知らないから、平気で居れる前首相などかな。
 マニフェスト完全実施を迫るキチガイが散見される世の中ですから、勉強の深さのない人々が目につくのでしょうね。この狂信的な人は太平洋戦争に突入していった時代にも非常にたくさんいましたね。勉強をしてもこのような意味のないことに固執するようなことを信じるようになるというは勉強していなかったというのと同じでしょうね。

2011年2月10日
教育熱心とはなになのか

 2月8日にniftyでSAPIO2011年1月26日掲載の『日本のお母さんは教育熱心ではなく教育“結果”熱心なだけ。このままでは中韓に置いていかれる――僕も銭湯帰りの父に“好奇心の種”をもらった 親と学校は子供に「考える力」を身につけさせよ』というのを見つけました。詳しくはサイトまたはSAPIOで。
 今、よく「教育熱心」といわれるのは、子の勉強をコントロール(塾通いなど)し、テストで高得点を目指すというものかな。まあ、点数は高い方がよいとは思うのですが、その方法に問題があると思います。この記事でも益川教授は 「学ぶよろこび」より「自分の頭で考えて感じる面白さ」の方を推奨していると読みました。
 「自分の頭で考える」となると、基本事項は理解しているはずですよね。理解しているということは大抵覚えていますよ。それがあるから、未知の部分への関心が広まるのではとも思います。そして、それが、新しい「知識欲」とかになって、さらなる広がりを持ってくるのでと考えるのです。
 ところが、今の教育の現状は制限された範囲内でいかに短時間で素早く(考えていない)正解を回答するかですね。「解答」ではなく「回答」です。これに捕らわれているのですぐに「答え」をほしがります。それが、積み重なると、すべてにおいて「回答」は与えられるという受け身の感覚になるのでしょう。ですから、勉強をいうのは「与えられた回答」の丸暗記になっていくのでは。ですから「刻苦奮闘」とか、「根性」とかが出てくるのですね。
 自ら考え、新しいことを見つけたりする楽しさを知れば、俗に言う普通の勉強もできるようにするのは簡単だと思います。ただ、そのとき、親や教師のレベルが低いと関心事のみになって、学力の広がりに欠けた勉強になるのではと思います。
 考えるのは時間がかかります。親や教師はその時間を待つ必要があるのですが、待つことのできない大人が増加してきていると思うのです。それが、日本の子供の学力の低下に拍車をかけている一因ではないでしょうか。
 短時間で得られる「結果」に固執する教育熱心は多くの場合、子供の学力は伸びなやんでいますよ。ただ、周りがみな、そのような状態なら「みんなで・・・ば怖くない」状態になって、その異常事態に気がつかなくなってしまいます。このような親を結構見かけます。親本人にそのことをわからせるのは難しいですね。その結果としての「見えない虐待」が延々と続くことにもなるのです。「見える虐待」も大変なことなのですが、「見えない虐待」も同様だと思います。

2011年2月8日
この世に無駄はあるのか

 2月8日にYahooで見つけた京都新聞配信の記事に「体内時計のリズム 京大教授ら関係性解明」というのがありました。記事は遺伝子の空白部分「イントロン」についての京都大ウイルス研究所の影山龍一郎教授たちのグループについてでした。詳しくは記事を。
 タンパク質の遺伝子がRNAに読み出されるとき、「遺伝子」部分の他に間に挟まった「イントロン」というタンパク質のアミノ酸情報のない部分も読み出され、核内で「スプライシング」という切りはぎがおこなわれて、タンパク質のアミノ酸情報のある部分だけの伝令RNAに加工されています。このいらないとされていた部分についての研究ですね。
 人工的にDNAを改変してイントロンのないのにして、発生させたところ胎児は出生してすぐ死んだというのです。この原因は普通の遺伝子なら起こるタンパク質の量的変動が起こらず、肋骨が形成されていなかったというのです。ということは、イントロン(今までの考えでは不要部)が重要な働きをしていると考える必要があるというのです。
 これは、ゲノムの部分以外のDNA配列を「ジャンク(ガラクタ)」と扱ってきたのと同様で、この「ジャンク」も{RNA干渉」とかに必要なRNAを創ったりとか重要性がいわれるようになってきていますね。
 ということは、生物の成長とかで「不要」といういえるのはどの程度あるのでしょうか。そして、教育において「不要な教科」とはどの程度あるのでしょうか。そして、「不要」とかのレッテルを貼ったりして、教育方法が変質したために弊害の方が多い事態にしてしまっているのが日本ではないのでしょうか。
 本来の意味が出るようにしておけば、無駄どころか有益なものを「無駄」「不要」にしているのは人間の傲慢によるものではとも思います。その結果、児童生徒学生の学力低下として現れてきているのだと思います。あの国際試験はどの学校でするかで乗り切れても、大多数が学力低下していくようであれば日本は崩壊しそうですね。

2011年1月15日
センター試験

 2011年1月15日に2011年度の大学入試センター試験が始まりましたね。
 いつも思うことがあるので、今年もということで書きます。各大学はこの試験の得点は京都大学理学部などのような足切り点に使って欲しいです。ようは、最低○○○点以上必要とね。
 大学入試センター試験の前の共通一次試験は、模試業者の模試によるランク付けとかをなくすとかいって導入したはずですね。ところが、この共通一次の得点を合否判定に使ったため、より精密にランクを出せることになったのです。
 大体から、日本はよくこの手の間違いをしています。なにか、新しい仕組みを導入するとき、理念(または総論)はよいとしても実施面(または各論)の時に個々の小さな利害で新しく導入することによって得られる利益を失うということです。
 このような総論賛成各論反対は各国でもあると思いますが、日本みたいなところの多くは国がもっと傾いていると思います。学力低下の主因は大学も含めて、学力の絶対評価が十分されなかった、または、外野がうるさくてできなかったということにつきると考えるのです。
 会津大学ができた当初は半数ぐらいが外国人教授だったとか。その教授が海外の大学みたいに絶対評価的に評価したら半数が留年該当になったとか。すると、親とかが文部省に文句を言って、文部省から指導が入ったとか。で、教授は「できないのを落としてなぜ悪い」とぼやいたとか。それでも、他より厳しかったから卒業生の評価は非常に高いとか。
 「日本技術者教育認定制度」というのがあって、海外の大学と同様にその学力等が認められるというのがあるのですが、最近の広がりは鈍いと感じています。こちらも、絶対評価で大学自体も絶対評価で認定を受けるということなのです。
 一体各大学の入学者の最低限の学力にどのくらい求めているかを示すのに「センター試験最低点方式」でもよいですから、発表させて欲しいですね。企業は、大学生にどのような力を求めているのか、その中で大学で普通に授業等を受けて得られる部分の最低度合いを公表して貰えるとよいと思います。今の採用活動でしたら、高卒段階でも十分でしょうね。
 次とその次は休みます。ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。

2011年1月9日
勉強の目的

 2011年もはや9日になりましたね。ところで、時々、書いている「勉強の目的」ですが、最低限の目的数は2つかな。そのひとつはよりよい人間になるための基礎を学ぶというものですが、これは果てしがないですね。この目的にも使えるのですが、「勉強の方法をつねに考えて鍛える」という面かな。これは、どの方面の研究するかとかいうために使えるのでいろいろ役にたちますね。
 そのほかには「立身出世」のためとか、「世の役にたちたい」とか、「よい成績」とか、あるのですが、基本的には前の二つができなうとあとの方は空回りしますね。
 2011年1月8日の日本経済新聞文化面「私の履歴書」(商船三井最高顧問生田正治氏)の中で氏が通われた慶応義塾大学教授の話「どの専門分野も2年間で究めることは到底できない。要は常に課題を見つけて自ら考える力をつけること。課題に対してどう知恵をしぼるか、頭の中に解決のためのインデックス創ることだ。自分のゼミはその道場だ」というのがありました。これは、勉強法の鍛錬こそが必要だということの表れだと思うのですが、基礎として十分な教養があってのことでしょうね。
 勉強というので、「目的」達成のためにはなにかこれをすればよいというのはなく、やはり、まずは「よりよい人間になる」ための幅広い役にたつ教養。それをもとにより深く教養を深化させるための方法という組み合わせというのがいつの時にも必要な最低限かな。「これを覚えればよい」というようなものは人間形成の初期にはあっても、よりよい人間になっていくときには役にたたなくなって行っているようです。